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第2部6章 差異の政治について [提言]

第2部
第6章 差異の政治について

はじめに
 アレントの評議会思想の現代化のために1つの不可欠な要素となるのは、エ
スニシティ集団の共生に関する政治思想である。
 エスニシティの問題の一部は、近代の負の遺産として続いてきたものであり、
現代の世界において深刻さを増してきているものである。他の一部は、現代に
おけるグローバル経済の変動、各国の国内政治あるいは国際政治の諸問題で発
生した移民・難民・外国人労働者等の流入によるものである。生きるための必
要から国境を越えて移動する人々の新たな増加は止まらない。私たちが、選択
すべきオルタナティブとして、多様な人々がともに良く生きられる社会を目ざ
すならば、それを可能にする政体の仕組みについても考えていかなければなら
ない。そういう方向性を持って、この分野の問題解決の基礎となる理念や最も
適切な方策を考えていきたいと思うのである。
 これは、問題としてはすでに数世紀の歴史を持つものであるが、自由民主主
義諸国においてその改善のための特別な政策がとられ始めたのは、数十年前の
ことにすぎない。1960年代後半にアメリカの公民権運動などエスニシティ
をめぐる社会運動が各地で始まったことがきっかけとなり、70年代には一部
の先進国においてそれまでの同化主義政策から多文化主義政策への転換が始ま
った。この政策は90年代以降、多くの国々で採用されるようになってきてい
るが、その結果としてエスニシティ問題の解決が果たされたかと言えば、そう
はなっていない。近年に至っては、むしろ激化の様相すら見せているのである。
 解決の手段として採られた多文化主義には、何が足りなかったのか。そもそ
も、基本的な方向性が間違っていたのだろうか。この章では、この分野で画期
的な論考を展開した二人の政治理論家の意見をもとにしてこれらの問題を考え、
より適切な答を探っていこうと思う。その中で、新しい政体に付け加えるべき
要素の内容と形も見えてくると思うからである。

1節 参照すべき「差異の政治」の諸理論
[1] キムリッカの多文化主義思想
 カナダの政治学者であるウィル・キムリッカの多文化主義思想で評価できる
と思うのは、先進諸国でエスニック問題が生じてきた歴史的経緯を構造的にと
らえた上で、長年差別されてきたマイノリティの側に立って、この問題の本質
を論じていることである。解決のための具体策という面ではリベラリズムの持
つ限界性を感じるのであるが、問題を生む構造の認識という面では説得力のあ
る議論を展開している。その点は参照していきたいと思う。
 そうした認識を得るために彼が用いた主要概念は、「社会構成文化」という
ものである。これは、新たに国民国家が設立されるときの過程をイメージする
と理解しやすくなると思うのだが、キムリッカはその定義を次のように説明し
ている。
  「 社会構成文化とは、公的・私的生活(学校・メディア・法律・経済・
   政治など)における広範囲の社会制度で用いられている共通の言語を
   中核に持ち、一つの地域に集中している文化を意味する。これを社会
   構成文化と呼ぶが、それは個人の生活様式にではなく、共通の言語や
   社会制度に関係していることを強調するためである。(中略)言語的・
   制度的絆・・これは、周到な国家政策の結果なのである。」(『土着
   語の政治』2001年)
   「 社会構成文化とは、人間活動の全範囲にわたって、諸々の有意味
    な生き方をその成員に提供する文化である。」(『多文化時代の市
    民権』1995年)
 このような意味での社会構成文化は、国民国家形成に必ず伴って生み出され
る人為的なものとして捉えられている。また、キムリッカはその国家政策によ
る形成・維持の努力は出発点に限らず、出来上がった国家の普段の営みの中で
も持続的に行われてきたと見ている。そこで定着していくのは、その国のマジ
ョリティ、多数派市民に共有される共通の感覚であり、各種の制度に関する共
通の知識である。それは円滑に社会生活が営まれていくための土台であり、個
人の生活や人生展開を意味あるものにするのに役立つものともなっている。
 そういう文化が形成され、維持されていくことは、エスニックな少数派にと
っては、何を意味するのか。先住民族や、併合された民族にとっては、それま
であった自らの社会構成文化を奪われ、破壊されることを意味する。一方、新
たに渡来する移民たちにとっては、どうなのか。母国の社会構成文化を離れて、
未知で異質な文化の中にほうりこまれ、別の人生を歩み始めることを意味する。
いずれの少数派にとっても、社会構成文化との関係という大切な面で不利な影
響を持つものであることに変わりはない。ところが、多数派市民にとってはそ
うした体験をすることはなく、これらがどれほどの負担やハンディを意味する
ことなのかは、なかなか実感しにくいものである。そのことを想像してみるど
ころか、ほとんど関心も持たずに過ごしているというのが、一般的な現状だろ
う。
 キムリッカは、エスニック問題の根底にこのような、文化面の奪い・奪われ
る関係があると見ている。また、国民国家の「同質性追求」という基本的性格
が、支配下の民族に対する排除と従属化を生みだしてきたとも言っている。そ
れにより、主流社会の多数派と各種のエスニック少数派との間には、構造的に
不平等な関係ができ上がってしまっているのである。では、そうした本質を持
つエスニック問題の解決、改善を図るには、どのような政策が必要とされるの
か。
 彼は公正な正義の実現のためには、多数派市民が享受している一般的権利と
は別に、マイノリティのための集団別権利が確立されるべきだと主張する。具
体的には、先住民族などに対して保障されるべき「自治権」、移民などに対し
て保障されるべき「エスニック文化権」、さらに、マイノリティに政治的発言
権を保障する「特別代表権」という3種類の権利をあげている。
 例えば、ある民族に自治権が認められ、居住する自治区が設定されるならば、
その中で民族の社会構成文化を回復することが可能となる。それを要求するか
どうかは、その民族の集団が選択し決定すべきことであるが、要求された場合
には、多数派は「力で奪ってきた」という歴史的経緯を踏まえてこれを認めな
ければならない。
 これに対して、移民の場合にはそうした要求が出ることはなく、一般的に主
流社会への統合を受け入れつつ、統合の条件を向上することが目ざされるとい
う。エスニック文化権というのは、そういう要求に応えるものであると同時に、
多数派からの「承認」という意味を含むものでもある。
  (註:エスニック文化権とは、ある社会でマイノリティとなったエスニッ
  ク集団が自らの文化の諸要素を社会生活の中で享受し、維持していく権利
  を意味する。)
 いずれの場合にも、各マイノリティの自主的決定を尊重し、それをもとにケ
ース・バイ・ケースで関係の改善が図られるべきだとキムリッカは述べている。
 一方、特別代表権は、公共の政治の場面にマイノリティが能動的主体として
現れることを権利として認めるものである。それは、通常の選挙制度の下では
代表されにくい集団が、国会に対しても自分たちの代表を送れるようになるこ
とを意味する。その意味で、エスニシティ問題への対処の中では、アファーマ
ティブ・アクション、つまり積極的差別是正措置の一つと位置づけられるわけ
である。
 キムリッカは、これらの特別な権利付与の目的と正当性を次のように表現し
ている。
  「 集団別権利―領域的自治、拒否権、特別代表権、土地権、言語権―は、
   多数派の決定に対するマイノリティ文化の脆弱性を緩和することによ
   ってこの不利益を是正する一助になりうる。」(『多文化時代の市民
   権』)
 キムリッカの理論の場合はこのように民族という集団とその文化を重視して
いるのであるが、ベースになっている基本的価値観はリベラリズムのものであ
り、コミュニタリアン的な傾向は認められない。あくまでも個人の選択の自由
が優先であり、民族のものである社会構成文化も個人の自由な選択を支え、可
能性を拡げるものとして捉えられ、重視されているのである。したがって、そ
の理論において、個人の自由と集団の権利は両立可能なものとして見なされて
いることがわかる。
 こうした権利の確立を主張するキムリッカの提言をどのように評価すべきか。
これらの権利が実際に行使された場合を考えてみよう。
 特別代表権が行使されれば、議会の中にエスニック集団の代表が議員として
含まれるようになる。そうなると、多数派市民の議員たちもその声を聴くよう
になり、相互のやりとりの中で「アイデンティティの承認」が実現されていく
ということが期待される。そのこと自体が、意義ある一歩前進にはなると思う。
しかしながら、エスニック問題に含まれる構造的差別・抑圧を考えると、こう
した権利の確立と承認だけでは多数派とエスニック少数派との間の関係が大き
く変わることにはならないと考える。したがって、課題の全体に対しては十分
な解決案であるとは思えない。
 しかし、特別代表権などの集団別権利が持つ意味、この問題に与える影響が
大きいことは確かである。なので、解決策の一部として政体構想の中に組み入
れていこうと思う。
[2]ヤングの「差異の政治」論
 エスニシティ問題を考えていく上で参照すべきと思う、もう一人の論者は、
アメリカの政治学者アイリス・マリオン・ヤング(1949-2006)である。
 二人を比較して言えば、キムリッカは民族と民族の間に生じた問題を考える
のに役立つのに対し、ヤングは格差・貧困の問題と重なるニュー・カマーズの
問題を考えるのに示唆するところが多い。その意味で相互に補完的であり、現
代のエスニック問題を考えるには、ともに欠かせない存在となっている。
 ヤングの場合、関心の対象はエスニック少数派集団に限らず、現代社会にお
けるすべての抑圧された集団に広がっている。アメリカの場合、その集団に含
まれるのは、女性、黒人、ヒスパニック、インディアン、ユダヤ人、アラブ人、
LGBT、高齢者、労働者階級、障がい者であるという。彼女は、それらの集
団の抑圧からの解放を目標として掲げ、そのための「差異の政治」の必要性を
主張した。
 ヤングは、問題の本質は現代社会における構造的抑圧にあると見ているので
あるが、その構造についての認識はフランクフルト学派の批判理論による社会
観にもとづくものである。批判理論は、自由民主主義政体の下での現代福祉社
会をシステム化された支配の構造を持つものとして捉える。そのシステムの総
体が、人々を支配するものとなっていると見るのである。多くの抑圧された集
団はこの構造の中にあって、政治的には無化されてしまっている。その要求は
社会運動の中で噴出することがあるが、日常の秩序の中では沈黙を強いられて
いる。その抑圧は構造的なものであり、主要な経済的・政治的・文化的制度の
中で組織的に再生産されているものとして捉えられている。
 (註:「批判理論」とは、1930年代以降、マックス・ホルクハイマーや
  テオドール・アドルノらが形成していった社会哲学のことである。 )
 ヤングは、そうした抑圧には、5つの主要な側面があると言う。「搾取」・
「周辺化」・「無力化」・「文化帝国主義」・「暴力」の5つである。抑圧さ
れた集団においては、必ずこれらの内のどれかが見られるが、複数のものが見
られる場合も多い。エスニック集団の場合は、すべてがあてはまる集団もある。
ヤングは、アメリカ社会の現実をもとに説明しているのであるが、その内容は
多かれ少なかれすべての先進国にあてはまるものであると思われる。なお、理
論展開の中で使われている支配・抑圧・搾取などの主要概念については、ヤン
グ自身の説明を見ておく必要がある。
 まず、支配の定義であるが、「決定への参加から人々を排除するような構造
的・組織的現象」であるという。こうした構造は本来「行為者であり、主体で
ある」人間を公的には受動的な存在に変えて、行動する中で「自らの能力を発
展させ行使する」機会を奪うものでもある。
 抑圧もまた組織的・構造的な現象なので、抑圧主体としての集団が存在しな
い場合もある。概念としては「一定の集団や一定のカテゴリーに属する人々を
固定化し、変形する傾向がある、力や障壁の閉じた構造」(マリリン・フライ)
『現実の政治学』1983年)を意味するものであると説明されている。「支
配」と密接につながる現象であり、人々が平等に生きられる社会という理念か
ら言えば、著しい不正義の行われている事態だと言えよう。
 さらに、抑圧の一形態である「搾取」は、次のように説明される。
  「 C・B・マクファーソンは、この(マルクスの)搾取理論をより明確
   に規範的な形で再構成した。すなわち、資本主義社会の不正義は、ある
   種の人々が、自らの能力を他者のために行使するという事実に存してい
   る。(中略)ここでは労働者から資本家への力の移転が起こるだけでな
   く、労働者の力は移転された量以上に大きく減少する。というのも、労
   働者は物質的な剥奪と自己統制の喪失を被り、自尊心の重要な要素を剥
   奪されるからである。」(『正義と差異の政治』1990年)
 ヤングは、こういう意味での搾取概念は、性的抑圧や人種的抑圧の場合にも
適用できるとして、同じ部分でジェンダー搾取と人種に特有な搾取についても
論じている。こういうことから、「抑圧の5つの形態のどれかが見られれば、
抑圧された集団である」という基準に照らし、女性も被抑圧集団に分類される
のである。エスニック集団は、歴史的経緯によって状況は異なるものの、文化
帝国主義による差別と抑圧を受ける点は共通しており、暴力・周辺化などの抑
圧も受けやすい存在であると言える。
 こうしたすべての抑圧を終わらせ、社会的正義を実現するためには、どうす
べきなのか。ヤングは、『正義と差異の政治』の中で、そのための変革のビジ
ョンを提示している。その要点は、以下のようなものである。
 ビジョンの基本的性格は「差異の政治」を軸としたラディカルな参加民主主
義制度の創出であり、社会全般における民主化の促進である。その1つの焦点
となるのは、都市を含む広域政府において集団代表制にもとづく差異の政治が
展開されることである。集団代表制は、①各集団の自己組織化、②政策提案の
集団的創出、③集団に直接影響する特定の政策への拒否権などを伴う制度であ
る。これによって表出される多様なニーズは、民主的な討議を通じて承認され
るとともに、多数派集団との関係を変えていく影響も持つようになる。ヤング
は制度の意義を次のように書いている。
  「 社会的正義は、民主主義をもたらす。人々は、職場や学校や近隣地区
   における関与、活動、規則の遵守に関わるあらゆる状況において、集団
   的な討議と意思決定に参加すべきである。そうした制度が、ある集団に
   他の集団に対する特権を与えている場合、民主主義の実質を保つために、
   不利な立場におかれた人々には集団代表が必要とされる。(中略)
    集団の差異をなくすという公正な社会の理念は、非現実的であるし望
   ましくもないことは、すでに論じた。逆に、集団の差異が認められた社
   会における正義は、集団の社会的平等、集団の差異の相互的な承認と確
   認を要求する。集団固有のニーズに注意を払い、集団代表を認めること
   は、社会的平等を促進するとともに、承認を提供することで、文化帝国
   主義を弱めるのである。」
 以上のように、ヤングは集団代表制の意義を高く評価する点で、キムリッカ
と共通している。一方、抑圧の構造の捉え方には大きな違いがあり、抑圧され
た集団の範囲も異なっている。それにより、差異の政治のビジョンも異なるも
のになっているのである。
[3] 集団間の関係を変える方向―花崎皋平の共生の思想
  ヤングとキムリッカは共通して「集団代表制」の必要性を唱え、それによ
って現出する「差異の政治」に対する肯定的な態度を示していた。私も、ある
べき共生社会に近づけていくために必須なものであると思うので、この提言に
は賛成する立場をとる。しかし、一方では、それだけではエスニシティ問題の
十分な解決と共生社会への転換は望めないと考える。そこに欠けているものは
「集団間の関係性の変化」と、「差別を生み出す経済的要因への対処」の二つ
である。特に、集団間の関係を変えていくことは、この問題の解決に向かうた
めの必須の要件であると思うので、現代の日本でとりうる有効な方策を探して
いきたいと思う。後者の具体策については、6章・経済の民主化の中で述べる
ことにする。
 ネクスト・デモクラシーでとるべき方策については次節で述べるが、その前
に、関係性変化の面で参考となるものとして、花崎皋平『アイデンティティと
共生の哲学』(1993年)に示された共生の思想にふれておきたい。
 花崎が目ざす関係性の変化、精神的な変化は「ピープルネス(ピープルにな
ること)」という理念の中にこめられている。この理念は「差異の政治」の基
底となる関係の創出に関するものであり、各エスニック集団の中にある民衆同
士が対話し、共感し合う中で共生の倫理を共有していくようになることを含意
するものである。
  「 ピープルになるとは、おたがいにナニサマでもない者としての関係に
   思いを広げ、関係をピープル化することである。ナニサマでもない者が
   そのままで生きやすい関係をつくることである。」(『アイデンティテ
   ィと共生の哲学』)
 この関係の中に前提とされているのは、共通性とともにある、多様性・異質
性である。異質性は各集団の歴史的経験ともつながっているものであるため、
ピープルネスは倫理的側面を持つものになることが要請される。
  「 『ピープルになる』とは、私と他者がいつでも加害と受苦の関係にな
   る可能性と必然性、その歴史的被規定性を承知した上で、しかもその場
   から『共に生きる』関係を目ざすことである。」(同上)
  「 『共生』の倫理は、日本と日本人にとっては、民族的に固有な歴史の
   過去を負ったものである内実を含むものでなければならない。」(同上)
 花崎の共生の倫理においては、「個人としての人格的独立性と自由」や「人
と人との水平化」ということも重視されている。つまり、自立した個人が自発
的に、相互に向き合いながら関係を築いていくべきだということである。
 共生の倫理は、その意味で相互主体性の倫理でもあるが、そこで前提とされ
るのは「他者の不可知性」である。お互いに自由な意志を持つ個人であり、異
質性によって隔てられた存在である以上、想像力の及ぶ範囲には限界がある。
したがって、そうした限界性もわきまえた関係の倫理でなければならないとさ
れる。
 そうした異質性を持つ集団と集団、個人と個人がピープル的な関係を築いて
いけるのは、相互に向き合う水平性の秩序においてであり、対等に交渉しあい
協力し合う過程においてである。つくるべき共生社会のイメージは、次のよう
に描かれている。
  「 こうした『ピープルネス』を気分として共有する社会は、生命の移ろ
   いやすさ、傷つきやすさ、多様性と差異を、文化として尊重し、無理な
   発展=開発を追求しないやわらかい秩序の社会とならざるをえないだ
   ろう。やわらかい秩序とは、管理の少ない分だけ、水平的な人と人との
   『あいだがら』での矛盾の処理・解決を許容する社会である。それは、
    慣習法や妥協によるそのつどの解決の余地をのこすことになるから、
   表層的には首尾一貫性や機械的公平性を欠く。しかし、その代わりに関
   係の安定性や合意が重みを持つ。」(同上)
 1章において、住民同士の関係性の変化ということを論じたが、花崎の共生
社会論には内容の面で共通するところが多いと感じられる。例えば、相互主体
性の論理、水平の人と人とのつながりなどである。その上に、歴史的なことを
意識した「共生」の倫理の確立も論じられている。
 ということで、基本的に賛成できる内容なのであるが、こうした関係性を確
かなものにし、エスニック問題を解決に導くためには、より踏み込んだ方策が
必要であると考える。特に、オールド・カマーズとの間では、近代の負の遺産
を見つめつつ、それを乗り越えていくような深い信頼関係を構築することが大
切であり、その成果はエスニック問題状況全体の改善にもつながるものになる
と思うのである。具体的には、以下のような解決の方策をとるべきだと考える。

2節 日本における問題解決への道
 エスニック問題の歴史的経緯は、国によって大きく異なるところがある。そ
れらの経緯は各国のエスニック問題の現状にもつながっており、その多様性を
生みだす要因の1つにもなっている。この点を思えば、問題解決への道筋もそ
れぞれ異なったものにならざるをえないと考える。ゆえに、ここでは、日本の
過去と現在をもとにして解決の方途を考えてみようと思う。
[1]共通の方策
 日本における主なエスニック問題としては、①民族的マイノリティ(アイヌ
・ウチナンチュ)、②在日韓国・朝鮮人、③外国人労働者・ホステス等、④世
界各国からの移民・難民があげられる。③の労働者の中には、a.入管政策に
よって不法滞在とされる者、b.入管によって合法的滞在者とされた者、c.
技能実習生、という法的に見た場合の3種類が含まれる。
 解決の道は、「オールド・カマーズ」と呼ばれる①・②と、「ニュー・カマ
ーズ」と呼ばれる③、④とでは大きく異なるが、共通して採られるべき解決策
もある。共通の方策としては、a.政治的権利に関するものと、b.文化的権
利に関するものが考えられる。まず、aについて論じていこう。
 冒頭から述べているように、ネクスト・デモクラシーは国民国家の消滅を前
提とし、政体の範囲内に住むすべての成人の参加によって営まれるべきもので
ある。そうである以上、政体の各レベルにおいて誰もが参政権を持つのは当然
のことであり、民族的属性は関係なくなる。多民族社会を反映した、多民族の
議会となるのである。
 このために必要なもう一つの制度的変化は、抑圧されたエスニック諸集団の
特別代表権が認められることである。つまり、普通選挙で選ばれる議員たちと
は別に、エスニック集団毎に選ばれた議員たちが、ともに同等な資格で議会に
参加するようになるということである。③や④のニュー・カマーズ集団は日本
語能力の面で問題が起きるかもしれないが、通訳をつけることによって、その
問題はクリアーできる。集団代表の参加によって、マイノリティの抱える問題
が可視化されやすくなり、当事者たちにとっての最適の改善策が提起される。
こうしたことの効果を考えれば、多少の負担の増大が見込まれるとしても、実
現を目ざすべきだと思う。
 bの文化的権利も、エスニック問題の焦点の一つが「アイデンティティの承
認」の問題であることを思えば、不可欠のものとなる。人種差別の問題でフラ
ンツ・ファノンが指摘したように、抑圧された集団の人々の内面においては、
多数派の文化への屈服による自己卑下の心理が起きやすい。そのために、ヤン
グが指摘した「文化帝国主義」による抑圧が続いていくのである。この不正義
を是正するためには、集団同士が相互に向かい合い、異質な文化への理解とリ
スペクトを深めていく「承認」のプロセスが必要である。そうした関係づくり
の基礎を作るためには、キムリッカの提起した「エスニック文化権」の制度化
も必要であると考える。具体的に言えば、①民族の言語、②固有の宗教、③伝
統の慣習や文化などを維持することができ、民族的マジョリティから妨害や差
別などの不快な攻撃を受けない権利である。これがあれば、各エスニック集団
は固有の文化を守りつつ、主流社会の中で生活し続けられるようになる。多数
派は、それを認めた上で、さらに積極的に理解を深める努力を続けるべきであ
る。
[2]オールド・カマーズに関する解決策
 ここからは、共通の施策以外にとるべき方策について述べていく。
 何よりもまず、多数派は、①と②のオールド・カマーズおよび民族的マイノ
リティの人々との根本的な関係変化を目ざさなければならない。アイヌ民族、
琉球民族、在日の人々‥いずれも、日本の近代国家形成と帝国主義的侵略政策
が生み出した犠牲者であり、日本人とこれらの人々が加害者・被害者の関係に
あることは言うまでもない。そうした人々とともに公共性あるコミュニティ、
民主的で平等な政治社会をつくり、共に営んでいくためには、どうすべきなの
か。
 そのために最も大事なことは、いかにして相互の信頼関係を築くのかという
ことであると思う。そのためには、自らの民族の過去の行為についての謝罪と
和解、近代の歴史についての知識の共有、現在ある差別や人権侵害の阻止のた
めにともに闘うこと、よりよき未来のための活動に一緒に取り組むことなどが
思い浮かぶ。ネクスト・デモクラシーのもとで、これら全てが本気で取り組ま
れていくならば、この課題の解決への道が開けていくと思う。
 上記の全てに共通している性質は、「共有すること」ではないだろうか。歴
史の分野では「過去の共有」が行われ、反差別の分野では運動を通じた「現在
の共有」が行われる。また、双方が参加する各種のNGO活動などでは、目標
の共有という意味で「未来の共有」が生まれる。
 この視点から、信頼関係構築のための諸方策をまとめて言えば、共に活動す
る中で、「過去と現在と未来の共有」を進めていくことである。この3つの面
での共有活動が確かなものとなる時、集団間にあるわだかまりや恨みや相互不
信などが消えていくに違いない。同時に、共に同じ目線で活動していくことに
よって、花崎が求めるような関係性の変化も実現しやすくなると考える。それ
によって、最終的には、信頼感と連帯感によって結ばれた共生のコミュニティ
が生まれる可能性がある。
 それでは、次に、過去・現在・未来の共有という各分野で有効と思われる方
法について考えてみよう。
 「現在の共有」のためには、政体の各レベルにおける「差異の政治」(集団
別権利)の実現とローカル・レベルにおける「まちづくり」での協働が有効で
あると思う。在日の法学者キム・テミョンは著書『マイノリティの権利と普遍
的人権概念の研究』(2004年)の中で「差異の政治と差異なき政治の両方
が必要だ」と述べている。住民としての共通課題にともに取り組むことは、相
互信頼の形成に役立ち、ピープルネスを実感させるものとなるに違いない。
 「未来の共有」というのも、コミュニティや列島社会や地球に住む住民とし
ての共通課題に取り組むことであり、その点では「現在の共有」と似ている。
目標の実現に時間がかかり、長期的な取り組みになるところは、異なるところ
である。その活動はNPO法人やボランティア・グループなどの市民団体の形
で取り組むのが適当であると思うのであるが、その意義を考えると、団体の活
動への公的な支援や推進策も行われるべきだと考える。また、在日の人々が大
きな割合を占めると思うので、同じテーマに取り組む韓国の市民団体との連携
も実現しやすいと思う。海を越えたピープルネス関係の実現も期待できるとこ
ろである。
 「過去の共有」は、どのようにすべきであろうか。大きく分けて、民族間の
和解実現および、ピープルネスの視座に立った歴史認識の共有という2つの課
題がある。これらは、市民団体の活動とともに公的な事業としても取り組まれ
る必要がある。多数派の人々全体に関わることだからである。
 これも、現在の共有・未来の共有と同様に、長い時間をかけて取り組まれる
べきであると思う。長期的な活動の過程そのものが、信頼関係の構築に役立つ
と思うからである。
 順序としては、歴史認識共有のための研究活動、教育活動から始めるのが良
いと思う。地方や市によっては、調査活動が意義あるものとなる可能性もある。
同化主義教育の歴史をふり返るのも意味のあることだろう。抑圧の構造が見え
てくることにもなるからである。
 共同の活動の成果は、定期的に報告書としてまとめられるのが望ましい。そ
れらの積み重ねの上に、公式の場における謝罪と和解のコミュニケーションが
行われるべきだと考える。国際間と同様にエスニック集団間においても、あい
まいなままでは、理解と信頼は深まらないと思うからである。
 さて、現在の共有のための活動の中で最大の難問となると思われるのが、沖
縄の基地の問題である。これについては、どのように考え、政体構想と結びつ
けていくべきだろうか。
 現在の自由民主主義政体の下では、マイノリティの切実な願いは実現されに
くい。どんなに不公平なことでも、それがマジョリティにとって好都合な事態
であれば、変えてほしいという願いは無視され、維持されていってしまうから
である。こうした構造は、是非とも変えていかねばならない。
 ネクスト・デモクラシー政体においては、民族的マジョリティの専制はあっ
てはならないことなので、そのようなことは起こらない。エスニック問題の解
決という長期の目標を意識しつつ、集団間の対話と交渉によって決定がなされ
ていくことになる。
 この政体の下で沖縄の基地移転問題が提起されたとすれば、次のような展開
が予想される。まず、沖縄における住民投票が実施される。結果が「県内移転
反対」であれば、全地方が参加する地方代表者会議が招集され、話し合いが行
われる。そこでの決定は全員一致方式で行われるべきである。沖縄は住民の総
意どおりの主張をし、他の地方はそれを認めつつ、沖縄に代わって受け入れる
ことも承諾しないだろう。
 結局、この会議では沖縄からの移転は決定するが、日本列島内の移転先はな
いという結論になり、その後どうするかは中央の評議会と執行委員会で考えて
いくという展開になるだろう。沖縄住民の願いが実現するということになるわ
けである。
 類似の問題として、原発の問題、核ゴミの最終貯蔵施設問題等も集団間・地
方間協議にかけられるべきである。総じて現在と未来において、住民の生命や
健康に危害がおよぶ可能性のあるものは、住民の同意なしに建設されてはなら
ないし、集団間に不公平が生じることがあってもならない。そういう原則が必
ず守られる政体の理念と仕組みにすべきだと思うのである。
[3]ニュー・カマーズに関する解決策
 移民や難民は、各種の差別や抑圧に最もさらされやすい存在である。状況に
よっては、最低限の人権さえ守られないことがある。経済的な面でも、第2世
代を含めて貧困に苦しむことが多い。したがって、問題の解決を目ざすならば、
オールド・カマーズ以上に多面的な取り組みが必要となってくるのである。
 解決のために最も大事なのが集団間の信頼関係の確立であることは、オール
ド・カマーズの場合と変わらない。しかし、多数派の人々にとっても相手が文
化的に未知の存在であったり、言語能力の問題もあったりして、さまざまな困
難が生じることも覚悟しなければならない。
 こうした特性をふまえる時、解決のための基本的方策としては、主に5つの
ことが考えられる。1つは、地域社会においてコミュニティの一員として受け
入れていくこと。2つ目に、学校教育および社会教育の中で、多数派の人々に
おけるエスニシティ問題の理解を深めること。3つ目に、いくつかの積極的差
別是正措置(アファーマティブ・アクション)を含む多文化主義政策の実施。
4つ目は、集団代表の参加による差異の政治の実現。5つ目は、格差と劣悪な
労働条件を生みだす資本主義企業の行動を規制していくことである。第5の方
策は、政体の中に資本主義と各種産業・企業をコントロールするための仕組み
を作り出すことによって有効なものにしていくことができると考えている。こ
の点についての詳しいことは、次章で論じることにしたい。
 これら5つの方策は、全体としてこれまでの多文化政策の抜本的な変更を意
味するものである。
 第1に、これらの人々を単に「助けられるべき」受身の存在として見ていく
のではなく、社会に対して働きかけることのできる能動的主体として受け入れ
ていくという態度の変更が含まれている。これは、集団間の信頼関係の創出の
ために基本的な要件となることである。そのようにして初めて、水平の相互に
向かい合う関係が可能となり、コミュニケーションの中で信頼関係を生むこと
が可能となるからである。
 そのことは、「承認」の視点から見ても重要である。エスニック文化の尊重
のみが「承認」と理解されている場合には、単なる「好意的無視」で終わって
しまうことも多い。それでは、異文化を持った相手を一個の人間として尊重す
るまでには至らないであろう。独立の意思を持った主体として受け入れる時に
のみ、互いに人間として理解し、尊重していくプロセスが始まるのである。
 第2の変更点は、受け入れ側の多数派の人々への多文化教育の重視である。
 移民・難民のホスト社会への適応力を高めることのみが目ざされる場合には、
多数派への関心が薄まっていくようになりがちである。異文化理解も双方向的
なものであるべきだから、この点も忘れてはならない。また、ヘイト・スピー
チや排外的なネット言論が影響力を持たないようにするためにも、多数派への
基礎的な教育は不可欠なものである。
 付け加えて言えば、多数派の側に自然発生的にある文化(例えば、韓国文化)
への関心と学習意欲が高まっていく時に、信頼関係の醸成に最適な状況が生ま
れるというのも確かなことである。そのきっかけを生むものとして、スポーツ
やサブカルチャーの重要性も指摘しておきたい。
 第3に、いわゆる「承認の政治」と「平等の政治」(格差の縮小を目ざす政
治)の結合の実現という変更点である。つまり、移民・難民に課せられる諸種
の不利な条件、劣悪な条件をいかに是正していくかという問題であり、第3の
方策と第5の方策はこれにあたるものである。
 第3の方策では特に、大学入試における優遇措置など教育分野のアファーマ
ティブ・アクションが重要である。「貧困の連鎖」によって、若い世代に出発
点からの不利な条件が課されてはならない。住宅の無料貸与とか、健康保険の
無条件適用など、生活関連の諸分野での支援策も大きな意味がある。総じて、
貧困からの脱却を可能にするような施策が講じられなければならない。各種集
団の置かれた状況は多様なので、集団代表制による政治参加で聞かれる声にも
とづいてきめ細かな施策が講じられていくならば、その多文化政策はより心の
こもったものとなり、信頼の得られるものとなっていくに違いない。
しかし、この面でもう1つの大事なことは、資本の飽くなき利潤追求が生み出す各種の劣悪な状況をどうやって抑止し、緩和し、廃絶していくかという問題である。これは、エスニック集団のみならず、多数派の中の抑圧された集団全部に関連する問題だと言える。なので、次章において、「資本主義と企業のコントロール」をテーマとして論じる中で、併せて考えていこうと思う。
最後に、前記の「過去・現在・未来の共有」についてであるが、ニュー・カマーズの場合は、経済的あるいは時間的余裕の乏しさから、「過去」と「未来」の共有までは難しいと思われる。それでも、オールド・カマーズとの間のそうした経験の蓄積と関係の変化は、共生社会へ向けてのゆるやかな質的変化をもたらし、ニュー・カマーズの受け入れ方の改善にもつながると予想する。そういう意味でエスニシティ問題全体の解決にとっても、大きな意義を持つと思うのである。                  


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