SSブログ

第1部3章 自由民主主義政体の来歴(1) [提言]


第1部
3章 自由民主主義政体の来歴(1)19世紀から20世紀前半まで

はじめに
 国民国家の問題点については、その根源となった概念の問題性という面から
見てきた。しかし、その一般的政体となった自由民主主義政体については、出
発点からの歴史的変遷をたどりつつ見ていく必要があると考える。その理念や
コンセプトは同じであっても、政体の実際のあり方、機能のし方は時代ととも
に変わってきたからである。しかし、その歴史のすべてを論じる必要はないと
思うので、主な問題点の原因となったような節目の変化を追っていくことにし
たい。そのことにより、自由民主主義の問題点の総体が浮かび上がり、今日言
われている「デモクラシーの衰退」現象がなぜ生じてきたかについての答も見
えてくるはずである。
[1] 自由民主主義政体の形成過程をどう見るか
 19世紀の前半から後半にかけて、米・英・仏などの欧米先進国では、自由
民主主義政体の形成の過程が進んでいった。具体的過程は国によって異なるも
のの、そこには共通の要因、共通の意図、共通の傾向、共通の着地点が含まれ
ていた。この政体の本質的特徴をとらえるためには、それらを見ておく必要が
ある。
 まず、ヨーロッパ諸国について見ていこう。
 ヨーロッパでは19世紀に入って階級闘争が激化しつつあり、そのために、
新たな政体を階級社会へ適合したものにしていくことが切実に求められていた。
イデオロギー潮流としては、自由主義者と民主主義者の他に、保守主義者と社
会主義者も加わり、複雑なせめぎあいの構図となった。その中で、秩序回復を
願う人々の共通の関心事となっていたのは、民主主義への渇望を持って政治に
参加してくる民衆の力をいかに抑制し、制御するかということだった。イマニ
ュエル・ウォーラーステインは、『近代世界システムⅣ』(2011年)の中
で次のように書いている。
   「 全地球的な秩序の回復をめざす人々にとって驚きとなったのは、人
    民主権の概念は、彼らの認識をはるかに超えて、深く根付いていたこ
    とである。それを葬り去ることは、たとえそうしたいと思っても、不
    可能なことであった。いまや民主主義という妖怪が、名望家層につき
    まとっていた。(中略)したがって、名望家たちにとっては、いかに
    も民主的に見えて、実際はそうではない機構をどのようにして作り上
    げるかが問題だった。しかも、その機構は民衆のかなりの部分の支持
    をとりつけるのでなければならなかったが、そんなことは容易なこと
    ではなかった。したがって、自由主義国家こそが歴史的な解決策とな
    るはずであった。」
 経済的な先進国でもあったイギリス・フランスにおいては、19世紀の前半
から労働者階級の政治への登場が大きな脅威として感じられるようになってい
た。この脅威に対する「歴史的な解決策」となるはずの自由主義国家において
は、何よりも労働者階級と資本家階級の間の対立の解消が目ざされなければな
らなかった。ジョン・スチュアート・ミルの『代議制統治論』は1861年に
出版されたものであるが、この論点に触れて次のように書いている。
   「 現代の社会は、人種や言語、国民としての帰属意識の相違から生じ
    る強い反感で内部分裂していない場合は、主に二つの部分に分かれて
    いると考えてよい。(中略)一方を労働者と呼び、他方を雇用者と呼
    んでおこう。(中略)このような構成の社会状態で、代議制が理想的
    と言えるほど完全になることができ、また、その状態で維持可能とな
    るには、一方で肉体労働者やそれに類する人々、他方で雇用者やそれ
    に類する人々という二つの階級が、代議制の仕組みの中で均衡し、議
    会での採決においてほぼ同数の議員に影響力を持つようになっている
    必要がある。」
 19世紀に初めて基本形が形成された自由民主主義政体は、このように階級
闘争の行方が政治全体の動向を左右する時代に生まれた。C・B・マクファー
ソンが著書『自由民主主義は生き残れるか』の冒頭で述べているように、この
政体の特質は「民主的統治の機構を階級的に分割された社会に適合させようと
して企図されたという事実から生ずる」ものだったと言える。欧州における階
級闘争の激しさを思えば、難度の高い課題だったと見られるが、その答の鍵と
なったのは、「政党制」だった。18世紀から19世紀への政治思想の展開を
描いた後で、マクファーソンは、政党制の発展に焦点を当てて、次のように書
いている。
   「 男子平等選挙権がミルの恐れた階級政府をもたらさなかった理由は、
    政党制がこの民主主義を飼いならすのに異常な成功を収めたことであ
    る。(中略)私が考えるに、政党制が民主的選挙権の開始いらい西側
    民主主義国で実際に遂行してきた機能は、懸念された、あるいはおこ
    りうる階級対立の鋭さをぼかしてしまうことにあった―といってもい
    いすぎではない。(中略)
     階級的境界線をぼかし、それによって相争う階級的な利害を調整す
    るこの機能は、政党制の三つの変種のどれによっても同様にうまく遂
    行されることが見てとれる。(中略)第一の事例(二大政党制)にお
    いては、各党は中間的立場に移動する傾向があり、その中間的立場は
    各政党が明白な階級的立場を避けることを要求する。(中略)第三の
    事例‥実際の多党制においては、どの政党も選挙民に対して明確な約
    束を与えることができない。なぜなら、その政党も選挙民もともに、
    その政党が連合政府において不断の妥協をせざるをえないことを知っ
    ているからである。」(『自由民主主義は生き残れるか』1977年)
 マクファーソンは、こうした分析をふまえて、政党制が自由民主主義政体の
確立と安定化に果たした役割を次のようにまとめている。
   「 政党制が、普通選挙権を不平等社会の維持と折り合わせる手段であ
    ったということである。政党制は争点をぼやかし、選挙民に対する政
    府の(直接の)責任を消滅させることによって、そうしてきたのであ
    る。」
 この役割を果たした政党制は、19世紀中葉までの「名望家政党」のそれで
はなく、19世紀後半の男子普通選挙権の導入とともに発展してきた「大衆政
党」が競い合うシステムのことである。「大衆政党」とは、特に左派の政党に
おいて典型的に見られたものであるが、指導者と幹部たちと支持者大衆からな
る近代的組織をそなえた政党のことである。それは、欧州では1880年代以
降に普及し、20世紀以降の政党政治を準備するものとなった。アメリカの場
合は、イギリス本国からの独立革命という形で国家形成が行われたため、自由
民主主義政体の形成過程もヨーロッパとは異なるものとなった。しかし、政体
の制度設計に込められた意図や、諸勢力のせめぎ合い、最終的な着地点などに
は共通点が見られるのである。政治学者の待鳥聡史は、19世紀前半のデモク
ラシーの変遷を描く中で次のように述べている。
  「 厳格な権力分立の導入によって、議会をはじめとする特定の部門、あ
   るいは特定の政治勢力に権力が集中しないようにした合衆国憲法の理念
   は、十九世紀に入ると変質していく。端的にいえば、権力分立によって
   『多数者の専制』を徹底的に抑止しようとしたマディソンの構想は、後
   退を余儀なくされていったのである。それは、アメリカ政治における民
   主主義的要素の強まり、すなわち民主化だったとも言える。
    その原動力となったのは、政党であった。最初の大統領となったワシ
   ントンは挙国一致内閣を形成したが、彼の下に集結した建国の父祖たち
   の間には、次第にアメリカという国家の理想像や具体的な政策をめぐっ
   て相違が生まれるようになった。そして、ワシントンが二期八年で大統
   領の座から降りると、一七九六年の大統領選挙からは政党に分かれて候
   補者を立てることになった。」(待鳥聡史『代議制民主主義―「民意」
   と「政治家」を問い直す』2015年)
  「 しかし、政治に関与するエリートが相互に競争し、抑制し合うことに
   よって、特定の勢力が権力を持ちすぎないようにする、という構図は守
   られている。民主主義を抑止する役割を代わりに担うようになった多元
   的政治観、そしてその延長上にある自由主義は、当初ほど圧倒的ではな
   くなったにしても、依然として生命力を保っているといえよう。言い換
   えるならば、アメリカ政治の基本構図は、建国当初の共和主義による民
   主主義の抑止から、合衆国憲法制定直後の多元的政治観(マディソン的
   自由主義)による民主主義の抑止を経て、今日の自由主義と民主主義の
   併存へと変化したのである。」(同上)
 こうした欧米各国の歴史からわかることは、自由民主主義政体が形成される
前段階においては、各イデオロギー潮流間のせめぎあいが見られたこと、とく
に民主主義的潮流への警戒感が強かったことである。さらに、注目すべきだと
思うのは、自由民主主義政体の変化と最終的確立のカギになったのが大衆政党
だったことである。初期の近代的政党=大衆政党は、大衆と政治の結びつきを
作り出したという点で民主化の役割を果たすと同時に、一方では「階級対立の
鋭さをぼかす働き」も持っていた。マクファーソンが言うように、「政党制は
民主主義を飼いならすのに異常な成功を収めた」のであり、ウォーラーステイ
ンが言うように「いかにも民主主義的に見えて実際はそうではない機構を作り
上げる」ための有効な手段となったのである。
[2] 大衆政党の時代
 19世紀の欧米の政治における政党の力の伸長は、初めに自由主義者の主導
でデザインされた政体の性格が、各国の歴史の展開により民主主義的な方向に
変わっていったことを示しているように見える。また、共通して見られた名望
家政党から大衆政党への移行も、政党制自体の民主化だったようにも見える。
 しかし、欧州の大衆政党の研究やアメリカ史の詳しい記述を見ると、これら
の変化が単純に民主化と言えるのかどうかという疑問が湧く。なので、まず、
この論点について考えてみたい。
 有賀貞『アメリカ史1・2』(1993・1994年)には、アメリカにお
ける政党政治の時系列的変化の記述が多く含まれている。19世紀後半につい
ては、以下のような記述が見られた。
  「 南北戦争後・・この時期は二大政党への帰属意識が強かった。どちらの
  党も似たりよったりで、政策的意味を欠いていた。共和党は自党を分裂の
  危機から救った『愛国』の党、奴隷を解放した『改革』の党として描き、
  民主党は反中央集権、『個人的自由』を打ち出すことによって共和党政権
  に不満を抱く人々を引きつけることに成功した。」
  「 二大政党は70年代、80年代の社会の要請や人々の要求に積極的に対
  処する姿勢を見せず、ともに官職と利権あさりに狂奔する職業政治家のよ
  うに見えた。にもかかわらず、各選挙の投票率は高く、人々の政党帰属意
  識はきわめて強く、似たりよったりの政党の間の選挙戦は激烈をきわめた。」
  「 政党も連合体にすぎなかった。・・このような党組織を運営し、有権者
  を確保するための活動を行えたのは、政治を職業としていた人々のみであ
  った。こうした人々は非公式の内部組織『マシーン』を通じて活動した。」
 これらの記述からわかるのは、以下のようなことである。
  1. アメリカでは、19世紀中葉には大衆政党への変化が進んでいた。
  2. 各政党とも固定的な支持者層を持ち、その人々の政党帰属意識は強か
    った。
  3. 支持者たちは政策によって投票先を決めると言うよりは、党のイメー
    ジによって選んでいた。その選好は固定される傾向があった。
  4. 政策の決定は、職業政治家たちによってなされていた。
  5. 党に属する政治家たちは、社会の要請や人々の要求に積極的に対処す
    る姿勢を見せていなかった。
  6. にもかかわらず、国政選挙における投票率はきわめて高く、人々の政
    治への関心は高かった。
  7. 党の活動のために中心的役割を果たしたのは、非公式の内部組織であ
    る「マシーン」であった。
 アメリカ政治の「民主化」の内実は、このようにきわめて限定されたものだ
ったことがわかる。それは二大政党の組織内についても言えることであり、そ
こでは職業政治家たちが「マシーン」を通じて、内部の動きを統制していたの
である。一般の党員たちは組織拡大や選挙戦勝利のために党の方針どおりに動
く存在となり、大組織の中での分業関係が発達していった。
 政治社会学者マックス・ウェーバーは、1919年の講演の中で、アメリカ、
イギリスにおける大衆政党の組織の実態について次のように語っている。
  「 この名望家支配、とくに代議士支配の牧歌的状態と鋭い対照をなして
   いるのが、次に述べる最も近代的な政党組織である。これを生みだした
   のは、民主制、普通選挙権、大衆獲得と大衆組織の必要、指導における
   最高度の統一性ときわめて厳しい党規律の発達である。名望家支配と代
   議士による操縦は終わりを告げ、院外の『本職』の政治家が経営を握る
   ようになる。(中略)形の上では広汎な民主化がおこなわれる。(中略)
   組織された党員の集会が候補者を選び、上級の党集会に代表を送り出す
   ようになる。もちろん、実際に権力を握っているのは、経営の内部で継
   続的に仕事をしている者か、でなければ、政党経営の根っこのところを
   金銭や人事の面で抑えている人間たちである。(中略)こういうマシー
   ンの登場は、換言すれば、人民投票的民主制の到来を意味する。」
  「 すべての権力は党の頂点に立つ少数者の手に、最後には一人の手に集
   中されることになった。事実イギリスの自由党では、グラッドストンが
   権力の座に登るのと結びついて全機構が急速に膨れ上がっている。この
   マシーンがあのように急速に名望家に勝てたのは、グラッドストンの
   『偉大な』デマゴギーの魅力、彼の政策の倫理的内容、とくに彼の人格
   の倫理的性格に対する大衆の確固たる信頼によるものであった。政治に
   おける一種のカエサル的=人民投票的要素、つまり選挙戦における独裁
   者がこうして登場した。」(『職業としての政治』1919年)
 ウェーバーは、アメリカにおける同様な変化は1840年代初期におきたと
言っている。その経過と政党マシーンについて語った後で、この変化が民主制
にもたらした結果を次のように語っている。
  「 人民投票的指導者による政党支配は、追随者から『魂を奪い』、彼ら
   の精神的プロレタリア化―とでも言えそうな事態―を現実にもたらす。
   追随者は盲目的に服従しなければならず、アメリカ的な意味でのマシー
   ンでなければならない。」(同上)
 このように、大衆政党化した近代政党においては、一人の指導者または複数
の派閥指導者たちの支配が確立されていく。彼らに従いつつ党機構を動かして
いくのは、党組織の官僚たちである。一般の党員たちは、指導者と官僚たちの
作り上げる運動方針や政策案を支持して、推薦された候補者に投票したり、集
会やデモに動員される受動的な参加者となっていく。このような性格・特徴を
持つ「大衆政党」は各国に普及し、20世紀の前半、さらに後半の1970年
代まで続く政党モデルとなった。
 ウェーバーと同時代に生きた政治社会学者のロベルト・ミヒェルスは、民主
主義的な政党は必ず寡頭制化すると考えて、どうしてそうなるかを理論的に説
明して見せた。彼は、大きく分けて、「技術的・管理的」・「心理学的」・
「知的(能力的)」という3種類の要因があるとしている。具体的には以下の
ようなことである。
  1) 技術的・管理的要因
   ① 現代の民主主義において、経済的・社会的・イデオロギー的に同じ立
     場にある人々は、自分たちの目的を実現するために結集し、大規模な
    組織を形成することを必要としている。
   ② 組織が大規模化し、複雑化するにつれて、その管理・運営は専門的知
    識を必要とするものとなり、官僚化が進む。
   ③ 現代の政党は闘争の組織であるため、中央集権的で寡頭制的なものに
    なる必然性を持っている。
   ④ 組織内部の権力は次第に少数の指導者たちに集中するようになり、一
    般の成員は彼らに依存するようになる。
  2) 心理的要因
   ① 大衆は、政治的決定に参加することに自発的欲求を持っていない。む
    しろ、専門的な人たちや指導者に任せ、負担を免れたいという欲求を
    持っている。
   ② 大衆は個人崇拝への根深い衝動を持っている。党の指導者を崇拝し、
    感謝の念を持つようになる。
   ③ 指導者は、代表としての地位を得ると、これを維持していくことに執
    着するようになる。党内の批判者たちを排除しようとする。
  3) 知的要因
   ① 職業的指導者層の成立は、彼らと一般党員との間の知的能力の格差を
    著しいものにする。
   ② 決定を下すことのできない大衆の無能力は、指導者の権力の定着化を
    きわめて強固なものにする。
   ③ 指導者たちはその職務の遂行の中で知的能力を伸ばしていき、ついに
    は出身の階級との一体感を喪失するまでになる。
 以上のようなミヒェルスとウェーバーの政党論は、当時の大衆政党が各国の
階級社会を背景として成長してきたものであることを示している。それぞれの
政党が固定的支持者層を持っていたことや、支持者の大衆が党の指導者に対し
て熱い帰依の感情を持っていたこと、指導する者とされる者の間に明確な差異
がありつつも両者の心理的紐帯は強かったことなども、この事情をもとに考え
れば、自然な結果として理解することができる。
 このような特徴を持つ大衆政党にもとづく政党制は、自由民主主義の政体を
階級社会に適合したものにするために大きく貢献したと言えよう。こうした組
織にもとづく自由民主主義政体は、民主主義の理念の実現という視点から見れ
ば数々の問題点を持ちながらも、代議制のシステムを確立し、20世紀前半に
おける国民国家の政治体としての役割を果たしていくことになった。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。