SSブログ

第1部4章  自由民主主義政体の来歴(2) [提言]

第1部
4章 自由民主主義政体の来歴(2)―第2次大戦後から現在まで

1節 福祉国家の時代
 第2次大戦というきわめて大きな試練をくぐり抜けた自由民主主義政体は、
戦後の一時期、資本主義の発展の中で福祉国家化の局面を持つことになった。
1945年から70年代頃まで、戦後期の始まりからオイルショックなどで各
国の経済状況が大きく変わるまでのことである。
 初期の自由民主主義政体が「階級社会への適合」という歴史的役割を持って
いたのに対して、この時期のそれは「国民国家を冷戦構造という現実に適合さ
せる」という役割を持つようになった。
 第一次大戦が総力戦となったことで女性を含めた普通選挙制度の導入が必要
になったように、第二次大戦後の東側陣営との対峙は、西側の国家にとって国
民的福祉制度の拡充による階級間の和解とそれによる社会統合の強化を必要な
ものとしていった。もちろん、戦後における経済状況の好転も追い風となった
のであるが、「冷戦」のもたらす不断の緊張状態の中では、何よりも「城内平
和の確保」を必須の課題とするプレッシャーが強く働いていたのである。
 このことは共通の要因であったが、どんな政党が政権についていたかによっ
て、それぞれの国家の福祉国家化に向かう積極性の度合いは異なっていた。例
えば、社会民主主義政党が政権をとったイギリス、スウェーデンなどは最も積
極的であり、「ゆりかごから墓場まで」という手厚い福祉制度がいち早く確立
されていったのである。これに対し、自由主義政党が政権を持っていた日本、
アメリカなどはそれほど積極的ではなく、導入の時期も遅かった。しかし、い
ずれにせよ、これが国家政策の基調となるためには、その国内部の自由主義勢
力と社会民主主義勢力の間の合意が必要であり、それが成立していったことか
ら、西側陣営の政治体制は「戦後和解体制」と呼ばれるようになった。
 そうした性格を持つ福祉国家のもとでは、どのような制度、政策が行われて
いったのか。政治学者の藤井達夫は、その統治の一般的特徴を以下のようにま
とめている。
 「 まず、福祉国家の下で暮らす人びとには、社会権を有する社会的市民―
  社会的なものの構成員としての市民―という法的地位が保障される。日本
  国憲法でいえば、生存権に始まり、教育を受ける権利、労働する権利など
  がこの社会権に当たる。次いで、この社会権に基づき、社会保険と社会福
  祉事業が国家の責任の下で制度化される。最後に、ケインズ主義だ。政府
  が自由競争を原則にするはずの市場に介入し、財やサービスの交換に対す
  る規制をかけることで市場を管理調整する。介入と管理をとおして、人々
  の生活の安全を守ると同時に、市場による社会の破壊を防ぐことを目的と
  した社会・経済政策。これがケインズ主義である。」(『代表制民主主義
  はなぜ失敗したのか』2021年)
 「戦後和解」は、自由主義・社会民主主義という2つの政治勢力間のみなら
ず、労働者・資本家という2つの階級の間にも成立した。福祉国家が作り出す
制度的枠組みに基づき、労組と企業、労働団体と使用者団体が整然と交渉を行
い、富の配分について合意に到達するようになった。階級対立が無くなったわ
けではないが、両者の関係はかなり安定したものになっていったのである。
 この時期は、代議制民主主義の歴史を語る本の中では「デモクラシーの黄金
期」と表現されることが多いのであるが、「黄金期」という評価には疑問を感
じるところがある。というのは、この時期においても「大衆政党」の特徴であ
る党内の寡頭制的傾向は変わっていないこと、労資の協調にもとづいた政党間
の妥協の政治は、政党に所属していない一般有権者にとっては縁遠いものにな
っていたことなど、民主主義の形骸化を示すような特質も見られたからである。
こうした政治によって取り残された問題は数多くあり、60年代後半には、直
接それらの問題に取り組む多様な社会運動の噴出が見られた。同じ時期に先進
諸国に共通して見られた学生運動の昂揚は、擬制の民主主義の下での支配や抑
圧の構造に対する不満・憤りの表出という性格を持つものでもあった。

2節 デモクラシー変容の時代
 戦後しばらくは福祉国家の特徴を示して安定していた先進諸国の政治体制は、
70年代から90年代にかけて大きく変容していく。その中で次第に姿を現し
ていったのは、福祉国家の反転とも言うべき社会・経済・政治の体制だった。
このような大きな変化は幾つかの歴史的要因が重なって生じたのであるが、中
でも最大の要因となったのは、70年代以降の世界経済の変化と、これに適応
すべく西側の諸国が採用した新自由主義政策の遂行だった。その結果生み出さ
れたのは、一方では格差社会化を始めとする社会・経済の変貌であり、他方で
は「デモクラシーの衰退」につながる民主政の変容である。この節では、西側
先進諸国においてこれらの変化がどのようにして始まり、展開していったのか
を見ていく。時代の区切りは70年代から90年代末までとし、その後の展開
については「デモクラシー衰退の時代」と題する次節で見ていくことにする。
[1]政党の変貌―大衆政党から包括政党へ
 19世紀末から20世紀初めにかけて生じた「大衆政党」という政党の基本
的性格は福祉国家の時代にも見られたのであるが、70年代になると、この面
の変化が始まった。
 まず、有権者と政党の結びつきが緩くなり、固定的ではなくなってくるとい
う変化が見られた。それまでは、「凍結仮説」(リプセット=ロッカン)とい
う理論的説明がなされるほど、各政党は安定した支持者層を持ち、彼らの代表
という意識で行動することができていた。この支持者層には階級的分布という
面ではっきりした特徴が見られ、左派の政党は労働者階級の党という性格を持
っていたのである。しかし、時がたつにつれて、そうした階級区分と党の支持
者層との対応関係は薄くなっていった。それとともに、心理的な結びつきも弱
くなり、支持する気持ちも帰属意識というものではなくなっていく。投票行動
においても、毎回同じ党の候補者に投票するとは限らない人たちが増えていっ
た。待鳥聡史の前掲書は、この局面を次のように描いている。
  「 かくして、1980年代に入る頃までには政党システムの凍結は消滅
   し、戦後和解体制も実質的に解体した。有権者と政党の関係は流動化し、
   無党派層の増大や新党の急激な盛衰、さらには政治不信の高まりなどが
   各国で見られるようになった。それは少なくとも一面においては、政党
   や労働組合といった既成の回路によっては有権者の利益表出が十分にで
   きなくなったことの表れであり、代議制民主主義の安定にも大きな影響
   響を与えた。政策決定の最も重要で正統な場である議会には、有権者の
   意思すなわち民意が適切に表出されていないという認識につながる変
   化だったからである。」(待鳥聡史『代議制民主主義』2015年)
 こうした全体状況の中で、政党の行動や組織にも変化が生じた。固定的支持
者層が減る中で選挙戦に勝ち抜くためには、より幅広い有権者の票を獲得でき
るように政策の内容、メニューを決めることが必要になる。選挙戦略を練るこ
とも重要になった。政党理論では、こうした特徴を持つタイプのものを「包括
政党」と呼んでいる。この時期、先進国では多くの政党が大衆政党から包括政
党へと変わっていったのである。
 包括政党においては、組織の性格・特徴も変わってくる。運動の効率性が重
視されるため、意思決定はトップダウンの方向でなされることになる。活動資
金は党員が納める党費だけでなく、多方面からの献金も合わせたものになる。
そのため、党活動は献金してくれる団体などの利害を考慮したものになる。
政党が諸団体の利害を政治・行政に反映させるための仲介役にもなっていった
のである。
 それぞれ大きな変化だったと言えるが、変容期に起きた政党の変化は以上の
ようなことだけでは終わらなかった。新自由主義的政策を軸とする政治が各国
に広まる中で、政党自体にも民主主義の衰退・形骸化をさらに促進するような
変化が生まれていったからである。その具体的な内容についてはこの節の終わ
りに述べることにして、ここでは、以上のような変化がなぜ起きたのか、各国
共通の要因に触れておこうと思う。
 その主な要因としては、世界資本主義の構造変化の中で先進諸国経済のポス
ト工業化が進むにつれて、先進国に住む人々の階級状況・意識が大きく変わっ
ていったことが挙げられる。先進国では、労働者階級の人口割合が減っていく
と同時に、豊かな社会に変わる中で中流意識を持つ人々が増えていき、階級意
識は不明確で希薄なものになっていった。この時期に労働組合への加入率が次
第に低下していったことも、そのことを示している。社会の中のこうした変化
に適応すべく、政党の側も基本戦略や組織のあり方を見直していくようになっ
た。その結果、これらの国々では、包括政党への転換が一般的なものとなって
いったのである。
[2]保守政権がとった新自由主義政策路線の影響
 西側諸国において新自由主義政策が普及する時代は、1980年ごろから始
まった。これも一部の先進諸国から始まったものであるが、90年代に入ると
多くの国々に広がっていく。そうなったのは、この現象も70年代以降のグロ
ーバル資本主義の発展が生み出したものであり、その結果、90年代以降は新
自由主義政策が普及する必然性を帯びるようにもなっていったからである。
 しかしながら、保守系の政権がこの政策路線をとって実行していく場合とリ
ベラル系または社民系の政権が同様な政策をとる場合とでは、政治的な意味合
いが異なり、政体に及ぼした影響にも異なるものがあった。なので、この点を
意識しながら、まず、保守政権の場合の典型としてイギリスの事例を見ていく
ことにする。
 イギリスにおいて最初に新自由主義的諸政策の実施を目ざしたのは、197
0年に政権に就いた保守党党首のエドワード・ヒースだった。しかし、その試
みは72年の第1次石油ショックがもたらした景況悪化、スタグフレーション
の始まりによって頓挫する。ヒース政権は、国家介入的な産業政策路線に立ち
戻ってこの局面を切り抜けようとし、労使関係の政策においても労働組合との
合意を目ざすようになっていった。
 サッチャーは、ヒースのこの「Uターン政策」を批判しつつ、党内ニューラ
イト勢力の支持のもと、75年の保守党党首選に勝利した。79年5月には、
連合王国総選挙でキャラハン首相の率いる労働党を破って、首相に就任する。
その後、90年11月の辞任に至るまで、広範囲にわたる「保守革命」の政治
を行い、新自由主義的なイギリス経済を作り上げていったのである。
 1940年代以来築き上げられてきた福祉国家体制とその中で培われた労働
者・市民の権利意識を思えば、それは容易なことではなかった。しかし、サッ
チャーはさまざまな抵抗の動きを一つずつ粉砕しながら、国家と社会・経済の
改造を進めていった。同時に国民の意識の面では、ナショナリズムの昂揚とと
もに、新自由主義のイデオロギーを浸透させることにも成功したのである。サ
ッチャーは、これらの実現を目ざす中で、政権の運営および政体組織の実態と
いう面でも変化を生みだしていった。
 1つは、福祉国家を支えていた諸勢力に対しては非妥協的な態度をとり、権
力構造から排除していったことである。これは労働党や戦闘的な労働組合はも
とより、保守党内の穏健派勢力である「ウェット派」に対しても行われた。例
えば、長谷川貴彦の「イギリス現代史」(2017年)には、次のように書か
れている。
  「 一連の非妥協的な対決の姿勢は、サッチャーに『鉄の女』というイメ
   ージを付与していったように思われる。それは、戦後の『コンセンサス
   政治』からの離脱を目指す過程を表現していた。こうしたサッチャーの
   強硬な姿勢に対しては、保守党内部でも意見が分かれた。穏健派のイア
   ン・ギルモアなどの『ウェット』と呼ばれる閣僚がいたが、サッチャー
   は彼らを閣内から追放していった。」
 このことは、政権を支える勢力が福祉国家に親和的な「旧右派連合」から新
自由主義に親和的な「新右派連合」に変わっていったことの表れでもあった。
新右派連合というのは、グローバル企業・金融資本・新エリート官僚・シンク
タンクなどの新自由主義を推進する勢力と宗教右翼・右翼知識人・著名人・ニ
ューライト組織などの新保守主義を支える人々のゆるやかな連結体を意味する。
レーガン政権期のアメリカ、小泉政権期の日本でも同様な変化が起きていたの
で、これは保守政権が新自由主義への政策転換を行う場合に起きる変化として
捉えることができる。これが1つ目の変化である。
 2つ目には、政治の寡頭政化が進んだことである。イギリスや日本のように
議院内閣制をとる国では、首相が大統領のようにふるまうようになった。アメ
リカでも、大統領への権力集中が進む現象が見られた。これは、頂点に立つ政
治家と有権者が直接に結びつく傾向が強まったためである。その中で、サッチ
ャーや小泉のように、ポピュリスト的な一面を持つ指導者も現れるようになっ
た。高い支持率を背景にして、改革に抵抗する勢力に対決する姿勢をとり、強
引な政治を進めることも可能になったのである。
 3つ目に、政権と企業エリートとの関係がより密接なものになっていったこ
とである。政権は「国を強くする」ために、グローバル企業と金融資本の発展
に力を入れる。企業や金融資本は、自分たちの利潤獲得活動をより自由により
広範に展開するために、国家の力を利用したいと考える。新自由主義的改革が
中心課題となる中で、こうした両者の関係は政治に強い影響力を持つものとな
った。また、両者の意向を実現していくためには、官僚の力も欠かせないもの
となる。そのため、政財官のエリートの結合も深まり、新右派連合の中核部分
をなすものとなっていった。
 4つ目に、右傾化の加速と、それをめぐる対立が深まっていったことである。
保守政権の新自由主義的改革が進む中では、同時に軍事・教育・文化などの領
域で右派が待望する諸政策も実現しやすくなった。全体として「右傾化」が進
行しやすくなったわけであるが、そのことは、左派やリベラル派に大きな危機
感を持たせ、国民の中にも深い分裂を生み出した。社会の中では、これと関連
して、人種差別の風潮とこれをめぐる対立も強まっていったのである。
 5つ目に、政治的対立が深まる中で、議会の審議が実質的な意味の薄いもの
になっていったことである。コンセンサスの政治から対決の政治へと基調が変
わる中で、議会は与党勢力が数の力で自らに有利な決定を勝ち取る場という以
外の意味は持たなくなる。ここでも、代議制民主主義の意義が薄れていくとい
う意味を持つ変質が進むことになった。
 以上のように、80年代からの保守革命・新自由主義化の政治の下で、自由
民主主義政体の現実の姿には大きな変化が生じ始めた。その影響はいずれも一
過性のものではなく、90年代以降にも続いていく基本的特徴を生み出すもの
となったのである。
[3]社民政権とリベラル政権による新自由主義政策路線の影響
 一方、社民系の政権において新自由主義政策への移行が行われた場合はどう
だったか。90年代イギリスのブレアー政権を見てみよう。
 トニー・ブレアーが労働党の党首になったのは、1994年のことである。
それまで15年間も保守党政権が続き、労働党は総選挙に敗れ続けてきた。政
権に返り咲くためには、党の思い切った刷新が必要とされており、中道路線へ
の転換を唱えるブレアーが選ばれたのである。若き指導者ブレアーのもと、労
働党は左派の政党から中道の党へと大きな変身を遂げていく。新自由主義の考
え方を組み入れた「第三の道」を基本理念として、グローバル資本主義の時代
への適応を図っていくようになったのである。
 この変身は成功して、新しい労働党は97年総選挙に勝利し、政権に復帰し
た。政権発足後、ブレアーは「知識に基づいたサービス型経済」を唱え、投資
の活性化を図っていく。一方で、結果の平等よりも機会の平等を強調し、それ
を実現するための教育の意義を強調した。活発な自由競争による豊かな社会を
目ざすという点では新自由主義と変わらなかったと言える。
 こうした政策の下では格差の拡大と貧困層の増加が当然の結果となるが、そ
れに対処するための福祉政策という面でも大きな転換が図られた。「福祉から
労働へ」をスローガンとして、就労支援による救済が目ざされるようになった
のである。生活保護の受給条件は厳しく制限され、それによって受給者がブレ
アー政権の間に60%も減少するという変化が見られた。こうした点からも、
労働党はもはや労働者階級の党ではなくなっていたことがわかる。
 党の変化は、党員や所属議員の属性分布の変化にも表れた。長谷川貴彦の前
掲書によれば、ブレアー党首の下で以下のような変化があったという。
  「 党首の指導力は、党にリクルートされた新規一般党員によって支えら
   れたが、この新規党員は、私企業に対して好意的であり、労働組合には
   あまり親近感を持たず、富の再分配に関心が薄いことが明らかとなって
   いる。」(同上)
  「 1997年5月・・新たに選出された労働党の議員は、労働組合の叩
   き上げの活動家が少数派となり、それらに代わって、ジャーナリストや
   弁護士などの中産階級専門職、移民や女性、セクシュアル・マイノリテ
   ィ(LGBT)が意識的に登用された。このことは、労働者階級・労働
   組合の党から中産階級の多文化主義の党へという、労働党の変容を象徴
   するものだった。」(同上)
 ブレアーは、こうした党を基盤としてさまざまな改革を行っていった。その
ための政治スタイルは、サッチャーと同様にトップダウン的なものであり、少
数者による政策決定の方式が多用された。党や議会を通してよりは、直接に国
民に語りかける中で支持を得るスタイルも特徴的なものとなった。彼もまた、
大統領的な首相となったのである。
 社民政権が新自由主義政策路線を推進する時には、政体の実態という点では
どのような変化が生ずるのか。主な変化として以下のようなことが挙げられる。
 1つは、保守政権とも共通する政策が行われることが多くなるため、主な政
党の間で政策面の差異が小さくなることである。そのため、そうした政策に利
益を見出せない人々にとっては、どちらの党にも投票したくないという気持ち
が強まる。無関心層が増加し、投票率も低下していく。
 2つ目に、政策が似たようなものになるにもかかわらず、政党間の対立は厳
しくなることが多い。これは、どの国でも価値観、文化的信念の対立にもとづ
く事柄が政治的争点になることが増えたためである。この領域では、保守と広
義のリベラルとの間での意見の相違は非和解的なものになることが多いのであ
るが、90年代以降はナショナリズムの問題とも重なって厳しさを増していっ
た。
 3つ目に、政治全体の寡頭政化が決定的なものとなる。いずれの党も政治エ
リートと経済エリートが結託する中で主な政策の決定がなされていくためであ
る。多くの議員たちは従属的な役割しか果たさなくなり、代議制民主主義の形
骸化は一層強まる。
 これと関連して、トップダウン的な政治スタイルも常態化していく。新自由
起きてくる。それらの抵抗を排して実現しようとするにはトップダウン的なス
タイルが必要となり、政党の中でも容認されやすくなる。代議制民主主義の実
態は、ますます民主主義から遠ざかっていくのである。
 4つ目に、主要政党の政治がエリート主導のものとなることから、これに反
発する右翼ポピュリスト政党や政治家が浮上する現象も生じやすくなることで
ある。ヨーロッパにおける新右翼の勢力伸長もその例であり、アメリカのトラ
ンプ現象も同様な原因によるものである。これらの勢力が政権を取った場合、
民主主義の暴力的な破壊という事態も生まれやすくなる。ヨーロッパの場合は、
EUへの反発とも重なり、この側面の問題性はますます深まる傾向にある。
 5つ目に、社民系の政党の性格が変わることにより、労働者階級の利益実現
を望む人々の中では失望感が広がることである。国によっては、この時期に共
産党が急速に衰えていく現象も見られ、その結果、長年続いていた左右の対立
が消滅することになった。
 リベラル政権が新自由主義路線を選んだ時も、上から4つ目までについては
同じことが起きている。そこから発生する民主主義の諸問題もよく似たものに
なってきているのである。こうしたことを前記の保守政権による導入の場合と
合わせてみると、新自由主義の席巻が民主政体に及ぼした影響はきわめて大き
かったと言える。
[4]新自由主義席巻にともなう政党の変化
 新自由主義時代の変化のうち、政党に関して起きたことは、より詳しく見て
おくべきだと考える。政党制は選挙制度とともに代議制民主主義の中軸をなす
ものだからである。
 最初に書いたように、大衆政党から包括政党への変化が進んでいたわけであ
るが、新自由主義化が始まった国々では、政党の変質が一層際立ったものとな
った。イギリスの経済社会学者コリン・クラウチは、民主主義政党の基本モデ
ルを中心部から周辺部へと広がる同心円構造として示した上で、この構造を変
えていくような変化が起きたと述べている。
  「 これまでの章で述べた企業の台頭や階級構造の混乱といった近年の変
   化は同心円モデルに大きな影響をおよぼしてきた。(中略)中枢である
   執行部の形が党内の他の円との関係において変化する。それは楕円にな
   るのだ。変化の発端はつねに同じで、党のリーダーたちと、党の中心に
   おいて執行部への昇進か政策の成功という精神的な報酬を求めるプロの
   活動家たちである。だが、党とその目標に共鳴しながら、もっぱら金銭
   のために活動する者もいる。また、仕事をするために党に雇用された純
   粋な専門家もいて、彼らは必ずしも政治上の支持者ではない。さらに重
   要なのは、こうしたグループがいずれも、政治家と接触するために政府
   の業務に関心を抱く企業のロビイストのグループと重なり、影響しあう
   ことだ。(中略)今日、与党もしくは政権にふさわしい政党は、民営化
   と外部委託に深く関与している。(中略)こうした仕事を獲得したい企
   業は、与党の政策決定機関と長期的関係を維持するのが賢明である。そ
   して企業の人間が一定期間を顧問として過ごし、党の顧問が企業のロビ
   イストとして職を得る。こうして党中枢の円は党内の各階層を超える楕
   円となって広がっていく。」(『ポスト・デモクラシー』2003年)
 こういう変化が起きると、大衆政党にはあった民主制的要素は確実に失われ
ていく。寡頭政的な決定のし方、トップダウン的な活動のし方に変わっていく
からである。
 「 党執行部から見れば、古い活動家で形成される円よりも新しい楕円との
  関係のほうがはるかに楽で、情報に富み、見返りが大きい。(中略)近年
  の傾向から推して考えるなら、21世紀の典型的政党は自己繁殖する内部
  のエリートで構成される党となるだろう。彼らは大衆運動の基盤からは遠
  い反面、複数の企業を根城とする。そして企業のほうは、世論調査や政策
  的助言、集票業務を外部委託するための資金を提供し、それと引き換えに
  党が政権を握った際は政治的影響力を求めるのである。」(同上)
 このような新しい類型の党が目標とするのは、絶えず揺れ動く有権者大衆の
状況をマーケットのように分析しながら、最も効果的な選挙戦略を練り上げて、
政権獲得につながる得票を獲得することである。この点においては左派の政党
も右派の政党も変わりがないため、上記のような特徴が共通のものとなったの
である。新自由主義時代の政党は、本質的に企業のようなものへと変わってい
ったのである。
 このような政党によって営まれる政治は、エマニュエル・トッドの言うよう
に「操作の政治」という性格のものとなる。新たな政党に属するプロの活動家
たちにとって「有権者は、政治家が仕える存在ではなく、政治家に操作される
存在」と見なされている。また、メディアというものも、彼らにとっては、国
民にメッセージを伝えるための媒体ではなく、操作のために要領よく利用すべ
き手段となる。
 そうなると、自由民主主義政体における民主主義的要素はさらに弱まってく
る。有権者の政治的意思の表出のルートと見なされていた政党が、そのような
機能は果たさなくなるからである。政党は、政治家たちが権力を獲得していく
ための道具、政治家たちの意思の調整の場にすぎなくなる。この面からも、デ
モクラシーの衰退は必然的な結果になっていくわけである。
[6]新自由主義の席巻はなぜ起きたのか
 70年代から始まり、80年代に加速した先進諸国での新自由主義政策への
転換は、それまでの社会のあり方、政体の運用のし方を大きく変容させるもの
となった。社会の面では格差社会化が急速に進行し、福祉政策の転換とあいま
って、貧困層の増大が大きな問題となってきた。政治の面では寡頭政化が一層
進行し、民主主義の形骸化の程度が強まって、強権政治化と右傾化の傾向がは
っきりしてきた。先行の福祉国家の下での政治・社会のあり方と比べれば、ま
ったく異質なものへの転化が進行していることがわかる。
 それでは、このように問題点の多い新自由主義政策がなぜ採用され、普及し
ていったのだろうか。その根本的な原因を考えてみたい。
 米・英両国における新自由主義への転換は、すでに70年代に始まっている。
政権の動機はスタグフレーションおよび財政悪化からの脱出にあったが、その
背景には、グローバル経済の進展がもたらす構造的問題があった。一つは新興
資本主義諸国の急速な工業化による追い上げである。技術の移転と賃金の格差
を考えれば、新興諸国が貿易競争において有利になるのは当然のことであり、
先進国の大企業は、これに対応すべく海外への工場移転、多国籍化を図ってい
った。
 こうした実体経済の面での変化が進む一方、金融経済の面でも変化のプロセ
スが始まっていた。これも、出発点になったのは、米・英両国の金融自由化で
ある。両国はスタグフレーションの苦境にあっても、金融経済の面での成長は
続いており、金融の自由化を図ることによって、これを強化していった。特に
アメリカは、金融資本主義を柱に新たな帝国としての地位を確立していく。そ
の体制の下で金融グローバリズムが急速に進展していったのである。
 こうした流れを背景にして考えれば、各国政府のそれぞれの時点での新自由
主義化はグローバル経済の変化に対応するためのものであったことがわかる。
 競争に勝つために、実体経済の面では生産コストの削減を図る必要があり、
新自由主義政策はその強力な武器となる。金融経済の面でも、自国金融資本が
競争に勝てるようにするには、金融自由化が必須のものとなる。一国がこの方
向への転換を図ると、他の国々も国際競争に勝つために追随していくことにな
る。世界的にこういう状況になったため、新自由主義政策をとる国が増えてい
ったのである。
 特にこの政策を積極的に推進しようとしたのは、レーガンやサッチャーのよ
うにナショナリズムの志向が強い政治家であり、政権である。彼らは、国と企
業の競争力を高めることが最も重要であると考え、そのためには自由競争が活
性化される社会、新自由主義の社会が望ましいと考えていた。そこでは、自ら
の属する国家と国民経済を強くすることが一番の関心事であり、そのために犠
牲になる人々がいても「改革の痛み」として正当化された。
 これらの事実をもとに考えると、新自由主義が席巻した時代の自由民主主義
政体の歴史的役割は次のように規定できると思う。
 〈 新自由主義席巻期の自由民主主義政体は、グローバル経済の変動の時代
  に国民国家を適応させるためのものである。 〉
 以上述べてきたように、70年代以降は世界的な資本主義経済の変動が最大
の要因となり、それと各国民国家の浮沈がからむ中で、民主制の変質、衰退が
進行していったのである。次章では、民主制の変質がもたらす「デモクラシー
衰退」の問題について欧米日の論者たちの見方を紹介しつつ、この節の内容と
も結びつけて、改めて考察してみようと思う。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。