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序文 [提言]

序――この本が目ざすもの
[1]
  2020年代の今、世界各国でデモクラシーの危機を思わせる現象が起きて
いる。具体的な形は多様であるが、どの場合も民主政治の形骸化と政治への信頼
感の低下という点では共通している。そのため、各国ともに民主主義の根幹が揺
らぎ始めたと言えるような状況になっているのである。
 こうした状況を反映して、民主主義の危機や衰退を論じる本が多数出版される
一方、民主主義という政治体制の有効性を疑問視して、非民主的なものに置きか
えることを主張する著作も現れるようになっている。(例:「アゲンスト・デモ
クラシー」)
 私は、大きな分類で言えば、民主制が最も良い政治制度であると考えている。
しかし、小分類で言えば、現在普及している代議制民主主義政体がベストである
とは言えず、本来の民主主義の理念に基づく、よりよい形の民主政体がありうる
と考えている。この著作は、そうした民主政体の一例を提示し、政治理念から具
体的な諸制度に至るまでの全体を「ネクスト・デモクラシー」として描き出すも
のである。
 私は、その政体が現代社会の抱える諸問題を解決して、よりよい社会とよりよ
い経済へと改革していくためにも役に立つものだと考えている。その意味で、社
会の面でも、経済の面でも、政治の面でも、現代が必要とする性質を備えた政体
であると思う。これからの時代に合わない古い政治体制からはできるだけ早く離
脱し、新しい政治体制の下で多くの有権者の知恵と力を結集して、みんなが幸福
に生きられる社会・世界をめざした政治を営んでいくべきだと考える。


[2]
 この本は上記の解決策を示すものであるが、具体的な目的は、
  1) 現在の自由民主主義政体に代わるべき、新たな民主政体の思想とビジョ
    ンを示すこと
  2) 同時に、それがよりよき社会・経済を作るための拠点にもなりうること
    を示すこと
という、2つである。
 私は、政治体制のみならず、現代の社会のありよう、経済のありようは、どれ
だけ人々の幸福な生活の基盤になっているかという規準から考えて、ひどいもの
になっていると思う。この点は、多くの人々の共通認識にもなっていると思われ
るのであるが・・。
 したがって、来たるべき政体は、社会・経済領域に巣食うさまざまな問題を放
置するものであってはならない。それらの問題を避けては通れない公共的な課題
として取り上げ、政治の回路からも解決を図っていくべきである。そうした取り
組みが行われやすくなる政体を目ざしたいと思う。
 そのためにも、その他多くの政治課題の解決のためにも、政体の変革が大きな
変化をもたらすと考えている。これまでの政体では到底できなかったようなこと
が実現可能になるからである。例えば、戦後の「占領改革」が目覚ましい「農地
解放」をもたらしたように…。しかも、構想の意図したようになれば、上からの
改革ではなく、普通に生活している人々が望むような諸改革が実現できるように
なるのだから、より意義深いものとなる。
 ある人は、「それって、どんな政体なの」と早速聞きたくなるかもしれない。
一口で言うのは、難しいのであるが・・。そういう時は、「近現代の歴史的事例
や、近年の先進国の良き先例にも学びつつ、以下の諸要素の総合によって生み出
される独創的なビジョンを考えた」と答えようと思う。
 1つは、20世紀の政治学者、ハンナ・アレントが提唱した評議会制システム
     を部分的に採り入れること。
 2つ目は、小さな自治からの出発を重視する「ローカル・デモクラシー」の政
     体系列を中軸に据えること。
 3つ目は、eデモクラシーの技術を活用しつつ、参加民主主義的な性格が際立
     って強い民主政体にすること。
 しかし、4つ目に政権交代や権力分立などの、既存の政体の良い点を、形を変
     えて継承していくこと。
 もちろん、これらを貫く新しいデモクラシーの思想があり、その詳しい説明も
心がけた。その点も含めて考えると、この民主主義思想と政体ビジョンは、近代
が生み出した思想と政体モデルの欠陥を是正し、乗り越えることを目ざしたもの
であるとも言える。
 実際にできあがったものが、こうした壮大な自負にふさわしいものであるかど
うかは、読者諸氏の判断に委ねたいと思う。皆それぞれに、自身の認識や希望や
経験にもとづいて考えていくのだから、答の多様性もあって当然なことである。
それでも、この著作から何らかの刺激を得たと思ってくれる人々がいるなら、私
としては十分満足できると思っている。
 以上の思いとともに、今後の展開も多難を極めるに違いない世の中、世界に向
けて、この提言を発表することにする。

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第1部1章 アレントの政体変革論 [提言]

第1部 歴史をふまえ、現状を見つめて、未来へ

はじめに
 本書の目的は今あるデモクラシー=自由民主主義政体に代わる、もう一つの
デモクラシーの構想を提示することにある。新しい政体の名前は今後考えるこ
とにして、今は仮にネクスト・デモクラシーと表記することにしたい。以下で
は、本書の主な構成とその意図を簡単に説明しておこうと思う。
 新しい政体の構想を作り上げるためには、まず、基礎となる政治思想を確立
していくことが必要とされる。次いで、その思想を現実のものとするのに最も
適した政体構想をデザインしていくことになる。
 これらの作業を進める上で筆者が心がけたのは、各種の理論・学説に学ぶこ
とに加えて、近代の国家と民主制がたどってきた歴史の経験に学ぶことである。
特に政体構想をデザインするためには、自由民主主義政体の形成時点からの歴
史に含まれる各種の事象が参考になると思われたので、改めてその歴史の流れ
をたどってみた。
 そうした準備作業を続ける中で、どうしても解決しなければならないと思う
2つの中心的課題が浮かび上がってきた。1つは、よりよき民主政体を実現す
るためには、近代の産物である国民国家という枠組みからの離脱を図らなけれ
ばならないということである。もう1つは、何よりも、自由民主主義政体の中
軸となっている代議制民主主義の制度を他のものに置きかえなければならない
ということである。
 そう考えつつ参照すべき政治思想・理論の文献を見ていくうちに、ハンナ・
アレントの戦後の著作の中に、これら2つの課題への答を明言した部分がある
ことを知った。それは、『革命について』(1963年)、『暴力について』
(1972年)の2冊である。彼女は、これらの本の中で、近現代史に繰り返
し現れた「評議会制」をモデルとした新たな民主主義への変革のビジョンを語
っている。その仕組みと理念を持つ新たな政体の実現によって上記の2つの課
題の解決が可能になると、希望を持って語っていたのである。
 筆者は、アレントの提言に代替ビジョン形成の可能性を感じる。また、それ
を支える政治思想についても、共鳴する部分がある。しかし、現代の世界・社
会に見られる問題状況や、諸条件の変化を考えてみると、その構想だけでは十
分とは言えないという思いも持った。したがって、そうした条件の変化に合わ
せ、民主主義の実現のために看過できない諸問題の解決を図る方向で、思想と
構想の発展を目ざすべきだと考えるようになったのである。いわば、アレント
の変革論の現代化・補完の作業が必要だと考えたのである。
 もう1つ、そうした作業の中で考えたのは、歴史的には革命の機関であった
評議会をもとに平時の政治機構を案出しようとしているわけなので、後者とし
て安定したものにするには、どうしたらいいかということである。結果的に、
この点も解決した形のビジョンをまとめることができたと感じている。
 ということで、第1章ではアレントの提唱のアウトラインを示し、説明する。
続いて、第2章では国民国家の本質的問題点、第3章と第4章では自由民主主
義政体の来歴、第5章では近年の「デモクラシーの衰退・危機」問題について
述べていく。これらの歴史をふまえ、現状を見つめて、新たな政体を構想して
いきたいと思うのである。

1章 構想への手がかり―アレントの政体変革論

[ 1 ] アレントの提唱
 提唱の内容は『革命について』(1963)の文章と『暴力について』(1972)の
インタビュー記録に見ることができる。インタビューの中でアレントが語った
のは、「これまでの主権国家の概念に代えて、新しい国家概念を生み出す必要
がある。」、「官僚組織と政党政治に代る新しい政治形態は評議会制度である。
」、「これは歴史上くり返し現れた、たった一つの代替案である。今後、この
方向で何かが見つかるに違いないと私は思う。」等の言葉である。研究書の資
料によれば、この方向での発言は1958年から始まっていたことがわかる。
また、そのきっかけとなったのは1956年のハンガリー革命であったと指摘
されている。現代の歴史と向き合い、考察を重ねる中で生まれてきた考えであ
ったことがわかるのである。
『暴力について』所収のインタビュー記録には、国家観についての考え方も含
めて変革すべきこと、評議会制がその可能性を示すものであることも語られて
いる。当該の個所を引用しておこう。

[ インタビュー記録の発言内容 ]
このインタビューは、1970年夏にドイツの作家アデルバート・ライフが聞
き手となって行われたものである。当時の学生運動などについての対話がなさ
れた後、最後の5ページ分に以下のやりとりがある。

ライフ:「先生の『暴力について』というご本の中で、先生はこう言っておら
れます。『国家の独立と国家の主権とが同一のものと考えられるかぎり、戦争
の問題の抽象的解決法さえ考えられない。』それでは、先生はどのような国家
観をお持ちなのでしょうか。」
アレント:「私が考えているのは、現在の国家観は変えなければならないとい
うことです。われわれが『国家』と呼んでいるものは、十五、六世紀以来のも
のに過ぎませんし、主権という概念も同じです。主権はいろいろな意味を持っ
ていますが、一つには国際間の対立は戦争によってのみ解決できるのであって、
それ以外に最後の手段はあり得ない、ということを意味します。しかしあらゆ
る平和主義構想とは別に、暴力の手段がこれほど拡大された今日では、大国間
の戦争は不可能です。とすれば、戦争という最後の手段に代るものは何かとい
う問題が起こるわけです。主権国間には戦争以外に最後の手段はありません。
戦争がもはやその役割を果たさないのであれば、その事実だけでもわれわれが
新しい国家観を必要としている証拠になります。(中略)
 革命は新しいものを打ち樹てたにもかかわらず、国家観あるいは国家の主権
という考えを揺るがすことができなかったと言った時に、私の頭にあったのは
『革命について』という本の中で多少詳しく説明しようとしたことなのです。
一八世紀の革命以来、大きい変動があるたびにまったく新しい政治形態ができ
あがるのですが、それはそれ以前のあらゆる革命理論とは無関係に、革命自体
の中から生まれ出るのです。要するに、行動の経験と、その結果として生まれ
るところの政治に引き続き参加したいという行動者の意志とから生まれ出るの
です。
 この新しい政治形態が評議会制度であり、それはいつの場合にも、結局国家
の官僚組織、または政党機関によって滅ぼされてしまったことは周知のとおり
です。この制度がまったくのユートピアなのか、その点は私には分りません。
しかし歴史上に現れた唯一の可能性であり、それも繰り返し現れたものです。
(中略)この方向に何か新しく発見できるもの、今までのものとはまったく違
う組織の原則があって、下から発生して次第に上に向かって進み、最後には会
議体に到達できるのではないかと私は思います。
 ヒッピーや中退学生の原始共同体はこれとは別です。公共生活や一般政治の
全面的否定がそれらの基底をなしているのです。(中略)政治的には無意味な
存在です。これに対して、評議会は始めは小規模なもの―たとえば隣組評議会、
専門職評議会、工場内評議会、アパート内評議会―であっても、彼らとは正反
対の意図を持っています。
 評議会は次のような意図を持っているわけです。われわれは参加したい、議
論したい、公衆にわれわれの声を聞いてもらいたい、そしてわが国の政治の進
路をわれわれが決定できるようになりたいのだ。しかし全国民が集まって自分
の運命を決定するには国が大きすぎるので、国内にいくつかの公の場所が必要
である。政府は問題にならない。政党内においてわれわれの大多数は操られる
存在にすぎない。しかし仮に十人であっても、テーブルの回りに腰かけてめい
めい自分の意見を述べ、他人の意見を聞くとすれば、その交換を通して合理的
に意見がまとめられるのである。理性的な意見の交換がなされる。そして一つ
上の評議会でわれわれの意見を代表して述べるのは誰がもっとも適当かおのず
から明らかになる。またそこでわれわれの意見は他の意見の影響で明確になり、
改訂され、あるいは誤りがはっきりする。
もちろん、全国民がこのような評議会の構成員となる必要はありません。すべ
ての人が公事にたずさわりたいと思うわけではないし、その必要もありません。
そこで一国の中で政治上の真のエリートを集める選出の過程ができあがります。
私はこの方向に私は新しい国家観の形成の可能性を見るわけです。主権の原理
とはまったく無縁であろうこの種の評議会国家は、あらゆる種類の連邦に適し
ています。特に権力が縦に形成されるのでなく、横に形成されるからです。
しかし実現の可能性はと今聞かれれば、あるとしてもきわめて少ないと答えざ
るを得ません。それにしても、そうですね。この次の革命の後には案外できる
かもしれません。」 
 この談話の内容から、アレントは評議会制が新しい政治形態であるとともに、
主権国家に代る新たな国家観を生み出す可能性を持つものとして見ていたこと
がわかる。それは、大国間の戦争が不可能になった時代にふさわしい国家観で
あると捉えられている。
 また、評議会制のもとで、どのように政治的決定がなされていくかの具体的
なイメージも語られている。全国各地の小さな評議会で最初の討論が行われ、
それが次第に集約され、反映される中で、全国住民の集団としての意思がまと
められていくイメージである。それは、明らかに既存のデモクラシーとは異な
る、もう1つのデモクラシーの像を描き出している。

[ 2 ] アレント評議会制論の意図と背景
 これらは実践的な意味を持つ主張なのだから、その内容の検討に先立って、提
唱に込められた思いや核心にある理念、さらには時代背景の下での形成の経緯に
目を向けておきたいと思う。
 1970年のインタビューを読んで、第一に感じたのは、アレント自身の中
に変革への熱い思いがあったということである。その語り口からは、できれば
評議会制の民主政体を実現したい、実現すべきだという情熱が伝わってくる。
一方では、現状では実現することが難しいという認識と同時に、わずかながら
ある可能性を追求していきたいという思いも感じられるのである。そこには、
アレントの行動する思想家としてのアイデンティティが現れている。
 その形成過程については、ハンガリー革命の影響に先立って、1930年代
の人民戦線および1940年代のレジスタンスへの肯定的評価があったことが
指摘されている。川崎修『アレント ―公共性の復権』(1998年)では、
以下のように述べられている。
 「 アレントは、一九四五年に「政党・運動・階級」と題された論文を発
  表している。内容的にはかなりの程度、『全体主義の起源』と重複して
  いる部分も多いが、その中で、全体主義以外の『運動』についての言及
  があることが興味を引く。(中略)
   しかし、この論文の中でアレントはナチズムと共産主義以外に、もう
  二つの運動がヨーロッパに存在したと述べている。それが、一九三〇年
  代の人民戦線と一九四〇年代のレジスタンスである。
   彼女によると、これらの運動は『古い政党制の外部に存在している』。
  この点ではナチズムや共産主義と同じとはいえ、人民戦線やレジスタン
  スは政党制の『解体』の結果ではなく、『人民の政治的な再組織とその
  政治制度の新たな統合の企て』なのである。(中略)彼女によれば、レ
  ジスタンスは人民戦線から、『(たんに諸階級ではなく)人民を政治の
  主体として主張するという原則を受け継いだだけでなく、正義、自由、
  人間の尊厳、市民の基本的責任といった政治生活の基本概念の復活に表
  現されているような、新しい政治的情熱をも継承したのである。』(中
  略)『とりわけ、レジスタンス運動は、すべてのヨーロッパ諸国におい
  て同時的に、しかしまさしくそれぞれ独立に発生した。そして、これと
  同様に同時的かつ独立的に、彼らは連合したヨーロッパの観念を発展さ
  せたのである。次第に、彼らはお互いに知り合いお互いを認め合うよう
  に努め、ついにはよく似た要求と同じ経験によって結ばれた、一つの全
  ヨーロッパ的な運動の諸支部のようになるまでに至った。(以下略)』
   直面する問題そのものへの洞察に促された自発的な連邦化の構想、こ
  れはまさに、次章で述べるようにアレントが後年、アメリカ合衆国の建
  国に見いだすストーリーそのものであった。
   一九四五年、ヨーロッパ文明の崩壊の年、ネーションと階級社会に依
  存しない市民の自発的な秩序形成としての政治秩序への長い模索を、ア
  レントは始めていたのである。」
 この記述により、アレントの評議会制構想は、第二次大戦中からのオルタ
ナティブ政体模索の長い道のりの末に得られた答であったことがわかる。ま
た、アレントの伝記に示される、亡命までのユダヤ人運動への参加の経験に
も裏打ちされたものであったことも見えてくるのである。それはまさに激動
の20世紀を生きる中でアレントが見出した変革のビジョンであった。
 さらに、「歴史上くり返し現れた、たった一つの代替案。」という表現か
らは、答はこれしか無いという強い確信とともに、上記の思索の道のりの中
の中でこれを見出し、見定めたという思いがあったこともうかがえる。この
ことから連想されるのは、1871年のパリ・コミューン樹立を目撃したマ
ルクスが「そのもとにおいて労働の経済的解放が達成されるべき、ついに発
見された政治形態であった。」と著書『フランスの内乱』の中に書いたこと
である。両者の政治思想はいろいろな点で異なるものの、民衆の自治的政府
を支持し、自らの未来ビジョンに取り入れる点は共通していたことがわかる。
アレントの場合は、1956年のハンガリー革命をリアルタイムで見ている
。この出来事を見て、評議会制こそが新しい統治形態にふさわしいものだと
いう確信を強めたのだと思う。
 『革命について』の中で、アレントはハンガリー革命について以下のよ
うに書いている。
 「 たとえばハンガリーの場合、あらゆる居住地域に出現した地域的な
  評議会、街頭における共同の闘争の中から成長してきたいわゆる革命
  評議会、ブタペストのカフェで生まれた作家や芸術家の評議会、大学
  における学生・青年評議会、工場の労働者評議会、軍隊の評議会、公
  務員の評議会等々があった。このような種々雑多な集団の中にそれぞ
  れ評議会がつくられた結果、多かれ少なかれ偶然的であった近接関係
  は、一つの政治制度に変わった。
   この自発的な発展の中でもっとも驚くべき局面は、この二つの例に
  おいて、ロシアの場合は数週間、ハンガリーの場合は数日もするとこ
  れらのいちじるしく雑多な独立した機関が、地域的・地方的性格の上
  級評議会を形成しつつ、協力と統合の過程を促進しはじめ、ついには
  これらの地域的・地方的性格の上級評議会から全国を代表する会議の
  代議員を選挙するまでになったということである。
   北アメリカの植民地史における初期の契約や協合や同盟の場合と同
  じように、ここでも連邦の原理、すなわち別々の単位のあいだの連盟
  と同盟の原理が、活動そのものの基本的条件から生まれたのであって、
  広い領土における共和政体の可能性にかんする理論的考察によって影
  響を受けたのでもなく、共通の敵の脅威をうけて結集したのでもない
  ことがわかる。共通の目的は新しい政治体を創設することであり、新
  しいタイプの共和政体をつくることであった。」(『革命について』
  1963年)
 川崎修が書いているように、ここからも、アレントが評議会の組織の特徴
とアメリカ合衆国の形成過程の間に共通点を見出していたことがわかる。1
つは、自発的な連邦の原理、すなわち「別々の単位のあいだの連盟と同盟の
原理」が活動そのものの基本的条件から生まれたこと、2つ目は、「共通の
目的は新しい政治体を創設することであり、新しいタイプの共和政体をつく
ること」であったと述べているからである。

[ 3 ] 引用箇所からわかること・注目した点
 その他にも、インタビュー記事と川崎が伝えたことの中に、注目すべきと
感じたことがいくつかあった。以下のようなことである。
 ① 「主権国家」に代る、新しい国家観が必要だと主張していること。
  アレントは、1つの理由として、大国間の戦争が不可能になっているこ
  とをあげている。新たな国家観の内容としては、評議会制と連邦制の結
  合というビジョンを示している。
 ② 評議会制を、代議制・政党政治とはまったく別種の民主主義として見
  ていること。相違点の中心として、民衆の活動によって生まれ、維持さ
  るものであることをあげていること。
 ③  評議会制のシステムは、民衆の生活圏から始まり、下から上へと積み
  上げられていくという特質を持っていると見ていること。
 ④  評議会の政治は、民衆の政治参加への熱望に支えられ、各レベルの評
  議会における理性的な議論によって営まれていたと見ていること。
 ⑤ 権力について、「縦に形成されるもの」から「横に形成されるもの」
  という変化が起きていたと見ていること。
 ⑥ 上記の過程で自然に生まれる「民衆の中のエリート」が引っ張ってい
  く政治になるだろうと見ていること。
 ⑦  ハンガリー革命のように、多様な属性の人々が参加する評議会制がイ
  メージされていること。
 アレントが評議会制という歴史事象に惹かれ、変革のビジョンとして提唱
しようと思った理由は、以上のようなことであったと思われる。
 『革命について』の中では、これらがさらに詳しく述べられているので、
第2部1章で見ていくことにしたい。

[ 4 ] アレント構想の現代化を目ざして
 私は、冒頭に記したように、アレントの提唱を代替ビジョン形成の可能性
を示すものとして評価している。しかし、現代における民主政体ビジョンと
しては、いくつかの足りない点があると思う。
 例えば、深刻化しているエスニシティによる対立や差別をどうするのか。
格差と貧困の問題をどうするのか。現代の政体ビジョンは、これらの問い
にも明確に答えるものでなければならない。また、各国で見られる党派対
立の激化による分断の深まりという状況をどう乗り越えていくのかについ
ても答を出さなければならない。
 一方で、現代においては、新たな民主主義の実現・確立に役立つと思わ
れる変化も起きてきている。例えば、日本でもコミュニティ再生の兆しが
あること、地方の衰退が逆に市民主導の「まちおこし」の必要の意識を生
んでいることなどである。とすれば、これらの要因を活かし、促進できる
政体はどのようなものなのか。革命時の一時的な機関としてではなく、平
時の政治・行政機構として機能する、安定したものにするには、どうした
らいいのか。これらの問いにも答えるものでなければならない。
 こうした新たな政体の基礎となる思想を深めていくためにも、まず、国
民国家の本質および自由民主主義政体の歴史と現状を見ておくことは有意
義であると思う。以下の各章ではそれらについての考察を述べることにす
る。

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第1部2章 国民国家のもたらしたもの

2章 国民国家のもたらしたもの

はじめに
 自由民主主義政体は19世紀に欧米諸国で生まれたものであるが、そこに至
るまでには近代国家の形成と変容の歴史があった。初めに登場したのは君主の
主権によって領邦を一元支配する絶対主義国家であり、これが市民革命などを
経て国民を主権者とする国民国家に変わっていく。この過程は国ごとに異なっ
たものであり、その中で出来上がっていく政体も、それぞれの国の特色を持った
ものとなった。しかし、それらには、近代政治思想の影響により、立憲主義・代
議制民主主義・権力分立など基本的な理念と制度における共通性があった。また、
19世紀以降に政党政治・普通選挙制度などの共通の仕組みを備えていくこと
により、自由民主主義の政体モデルが出来上がっていったのである。
 こうした各側面の「民主化」にもかかわらず、政体の前提となる国家の基本的
枠組みは、初期の近代国家のそれと変わらなかった。その枠組みは、主権国家・
領土・国民の概念、中央の権力の優位性、軍事力の独占、世界市場につながる国
民経済などの要素によって作り上げられたものであり、それらが新たに構築さ
れる政体の基礎となっていた。
したがって、この政体の問題点を論じるときには、前提の枠組みとなっている
国民国家というものが持つ固有の問題点を含めて見ていく必要があると考え
る。ということで、まず、国民国家の問題点から始めようと思う。
[1] 国民国家について―その1.「主権国家」の問題点
 国民国家(nation state)観念の問題点は、その発生源に目を向けるとき、
先行する絶対主義国家から受け継いだものと、変容の中で新たに加わったも
のとに分けられる。絶対主義から受け継いだものは、主権国家(state)とい
う外枠であり、そこには主権(sovereign)という概念が含まれていた。一方、
新たに加わったのは、国民(nation)という概念である。
 主権とは何か。もともとは、国王が支配する領邦国家の教皇権力からの自
立を正当化するための概念として生まれたものであるが、複数の領邦国家が
並び立つ欧州の国際秩序の中で以下のような意味を持つものとなった。
  「 主権とは、領域国家において、外部からの干渉を排して、国家にお
ける政治意思を最終的に決定する権限のことである。」(福井憲彦「国
民国家の形成」1996年)
 16世紀や17世紀のヨーロッパにおいては、領邦国家同士の戦争が絶え間
なく行われていた。こうした状況において、主権という概念は必要不可欠のもの
となり、近代国家の基本的性格を表現するものとなっていく。国民国家の時代に
おいてもこの点は変わらず、次第に形成されていく国際法の体系においても主
権国家としての国家が基本の単位と見なされるようになっていった。
 このように確立されたものではあるが、思想的に見れば、大きな問題を孕んだ
概念であると考える。そこには、対外関係を律する原理としての問題点がある一
方、国内の政治を民主政の理念から外れたものにしていくという問題点がある。
つまり、外に向かっての危険性と内に向かっての危険性があると言えるのであ
るが、具体的にどのようなものか、どうしてそうなるのかを考えてみたい。
 第1の問題点は、主権国家という観念が領土問題をめぐる争いや戦争という
非人道的な手段の行使を正当化するものとなることである。
この因果関係について、政治学者の福田歓一は1978年の講演の中で次の
ように語っている。
  「 それならば、なぜこんなにも危険の大きい軍事力というものが要るの
   か、それは国家という政治社会の第一の政治任務が国民の生命、財産の
   安全を、むしろ多くの場合その国家それ自体の存立を保障するというこ
   とにあったからであります。国家を超える上位の権威を否定したことか
   ら主権の概念は、前に申しましたように、まさに戦争の制度化を含んで
   いた。国家の第一の任務は対外戦争の遂行能力にかかっているとされた
   のであります。」(講演「民主主義と国民国家」『デモクラシーと国民国
   家』所収)
この中の「国家それ自体の存立を保障する・・」という部分も重要である。実
際の歴史を見ても、そこに住んでいる人々の安全よりも、国家の存立のほうが
重視されるという政治の選択はしばしば繰り返されてきたからである。
近代国家の持つこうした本質の故に、その暴力が国家内部の反対派に向けら
れるという事態もしばしば発生してきた。そうした場合に、国家の存立への脅
威になっているということが暴力行使の正当化の理由になるのもよく見られる
ことである。外部の敵に対する戦争も、内部の敵に対する弾圧も、近代国家の本
質の当然の現れであると言えよう。
第2の問題点は、国民主権という政治概念が、自由民主主義政体における理念
と実態の乖離をもたらす起点にもなっているということである。この概念は
絶対王政を倒し、封建制の政治社会を覆していく上では、変革のための理念と
して大いに役立った。しかし、その後の歴史においては、自由民主主義政体の
本質的特徴を覆い隠すためと、国政を握る政治権力の正統化のために必要なも
のへと役割を変えてきている。
 なぜそういうことが起きたかと言えば、「主権」という考え方自体の中に要因
があったからである。これは、もともと中世のヨーロッパで「誰が最高の政治的
権威であるか」を論じるために生み出されたものであったために、基本的に権力
の関係を垂直の方向でとらえる見方を含んでいる。領主より国王が上の人、国王
より教皇が上の人、というように・・。国民国家の時代となり、タテマエにおい
て「国民」が主権者とされ、その観念が代議制民主主義のシステムと結びつくと
き、今度は国民の委託を受けた代表者が最高の地位を占めるようになる。そのた
め、国民の最高の代表者である首相や大統領は政治的秩序の頂点に立つものと
見なされるようになるのである。彼らは、主権者であるはずの国民に代わり、そ
の代理人であるはずの議会に代わって、最高の意思決定権限をふるうようにな
る。また、最高の政治的権威を持つ者となっている。
「国民主権」という理念は、普通選挙制度の導入とともに、民主政の寡頭制
(註:少数の者が権力を握る政体)的実態のカモフラージュに役立つものとも
なった。ある政権の行う政策がどれほど実際の民意とかけ離れたものであっ
たとしても、総選挙で政権与党が多数の議席を占めたという事実さえあれば、
政権は自らの方針を実行に移すことができる。国会における強行突破による
法案成立も正当化されてしまうのである。これは民主制を標榜する国々の現
代史において、繰り返し現れてきた事態である。そして、今後も繰り返されて
いくことが予想される。
 主権概念にもとづく政治が続くかぎり、民主政の実態が民主主義の理念から
遠ざかっていくという日常的な浸食作用も止むことはないと見るべきである。
したがって、本気でその名に値する民主政を実現しようとするならば、基本とな
っている政治概念そのものを見直し、変更していく必要がある。主権国家という
観念も当然その中に含めるべきなのである。

[2] 国民国家について―その2.「国民」という概念の問題点
以上のように、「主権国家」の概念が戦争や寡頭制につながる問題点を含んで
いるのに対して、これと結びつけられた「国民」の概念のほうは戦争の正当化に
加えて、社会の中の排除・差別・少数者の人権の無視につながる問題点もはらん
でいる。どうしてそうなったのか、起源のところから説明してみたい。
そもそも「国民」という概念は、国民主権という理念からわかるように、絶対
王政に代わる新たな政体の正統性の根拠として用いられたものである。しかし、
それならば、市民革命の理念を表すに際して、より普遍的な「人民主権」という
選択肢もありえたのに、なぜ「国民主権」と範囲を限定したのかという疑問が湧
く。これに対しては、新たな国家に「共同体の要素を付け加える」ためだったと
いう答が出されている。
  「 この絶対王政と主権の概念とが、中世ヨーロッパの普遍共同体に代
   えて、近代特有の政治単位としての領域国家を作り出したのでありま
   す。(中略)そして、この国家に政治社会としての共同体的性格ない
   し幻想を供給したものこそ、国民nationという近代の概念であったの
   であります。」(『現代における国家と民族』福田歓一1985年)
 確かに、19世紀以降の歴史展開を見れば、国民国家という共同幻想が与
えた影響の大きさがわかる。当時の欧米からアジア諸国に広がったナショナ
リズムの昂揚は、この共同幻想にもとづき国民を1つの運命共同体と見る意
識に支えられていたのである。
 福田の文章で「共同性の供給」という表現が用いられているのは、先進諸国
においては18世紀までに中世社会の崩壊が進み、古い共同性の紐帯が失わ
れてきていたことによる。この変化をもたらした資本主義の発展は、一方で
新たな共同性としての国民意識の基盤となるものを生み出しつつあった。交
通手段の発達、市場経済の発展、新聞・出版の盛況などがそれである。
 また、「共同幻想」という表現が用いられるのは、現実の近代国家はそこに
含まれる宗教・イデオロギー・エスニシティなどの差異によって均質なもの
ではなくなっていたからである。また、資本主義の発展の中で階級間の対立
もきびしさを増していった。このため、「国民」の共同性は擬制としての性質
を帯びるようになったのである。また、この性質から、国民国家におけるいく
つかの問題点を生みだす元にもなっていった。
 第一の問題点としては、擬制の共同性としての「国民」が、異質なものへの
同化と排除の圧力を生みだしたことがあげられる。それは、まず、エスニック
少数派や定住外国人への同化政策として現れた。帝国主義の時代に植民地の
諸民族に対して強い同化圧力が加えられたことも、同じ動機によるものであ
った。第2次大戦後、各国の政策が多文化主義に転換して以降、あからさまな
同化政策はとられなくなったが、差別に基づく無形の同化圧力は依然として
続いている。また、「国民」の観念の影響は、戦中の非国民呼ばわりや、現代
のヘイト差別などの形で異質なものに対する排除の圧力としても現れた。国
民国家における同化と排除の圧力は、コインの裏表のようなものとして続い
てきたし、今も続いているのである。
 第二の問題点は、法的には「国民」の中に含まれることになった他民族やエ
スニック集団に対しての差別が強まっていったことである。これは、擬制の
共同性としての「国民」は、内なる差別を強めていく作用も持っていることを
意味するものである。
どうしてそうなるのかは、「国民」と民族の関係を考えることによって明ら
かになる。まず、擬制としての「国民」は、本来は国家の正統な構成員という
意味を持ち、特定の民族と関係づけられてはいなかった。しかし、実態におい
ては必ずその国で優勢な民族がいて、ナショナリズムの昂揚とともに、その
人々の民族意識も高まっていくようになった。言語の統一や歴史教育など国
家形成にともなうすべてのことがこの傾向を促進していく。その中で、多数
派以外のエスニック集団に対する差別の意識が強まるのは当然の結果だった。
第三の問題点は、普遍的人権と特殊国民的権利が結びつけられ、後者に置
きかえられたこと(例えば、「すべての国民は…権利を有する」という憲法条
文の書き方に示される。)によって、無国籍者や難民に対しては人権が保障さ
れなくなるという矛盾が生じたことである。『全体主義の起源』におけるアレ
ントのこの指摘に対して、花崎皋平は強い賛意を評しつつ、以下のように解
説している。
 「 第二次世界大戦後に生じた、国民国家に関係ある出来事として、彼
  女は無国籍者、難民の大量発生ということをあげている。その出来事
  と『人権』の状況をむすびつけて論じている部分に、私はとりわけ、
  衝撃を受けた。(中略)
   古代以来の神聖な権利としてのアジール(避難所)を求める権利、
  つまりある国家の権力範囲から逃れた亡命者たちに対しては、自動的
  に他の国家の保護が与えられ、法の保護や一定の権利が保障される慣
  習的権利は、消滅してしまった。国民国家体制の世界では、アジール
  権は権利としての質を失い、国家の裁量次第という、たんなる寛容で
  しかなくなった。それは、けっして人権宣言にもとづく義務ではない
  のである。」(『アイデンティティと共生の哲学』1993年)
 その他の普遍的人権にも同じことが起こった。こうした変化により、人権の保
障を最も必要とする人々が、まったく保護の得られないまま、サバイバル状況に
さらされるという事態が生まれた。
 こうした矛盾が示しているのは、国民国家が持つ本質的な差別体質である。そ
れは、自国の国籍を持つ者だけを守ろうとする本性を持っている。そのためには
、自らが標榜する普遍的な理念に背くことも厭わない存在なのである。
 以上、「主権国家」という概念の生むものと「国民」という概念の生むものに
分けて、「国民国家」が持つ固有の問題点を見てきた。この国家形態は、世界史
的に見れば、資本主義が発展を続け、諸国民が覇権を求めて競い合う時代にはふ
さわしかったのかもしれない。しかし、国同士の競争よりは人類全体の協力によ
って各種の危機を乗り越えて行くことが求められる21世紀の現代においては、
国民国家の廃絶こそがよりよき社会と世界への活路をもたらすものになってい
ると考える。したがって、このことは、批判的に論じるにとどまらず、政体変革
の構想の中にも含めていきたいと思う。その内容は、第2部の第1章で論じるこ
とにする。

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第1部3章 自由民主主義政体の来歴(1) [提言]


第1部
3章 自由民主主義政体の来歴(1)19世紀から20世紀前半まで

はじめに
 国民国家の問題点については、その根源となった概念の問題性という面から
見てきた。しかし、その一般的政体となった自由民主主義政体については、出
発点からの歴史的変遷をたどりつつ見ていく必要があると考える。その理念や
コンセプトは同じであっても、政体の実際のあり方、機能のし方は時代ととも
に変わってきたからである。しかし、その歴史のすべてを論じる必要はないと
思うので、主な問題点の原因となったような節目の変化を追っていくことにし
たい。そのことにより、自由民主主義の問題点の総体が浮かび上がり、今日言
われている「デモクラシーの衰退」現象がなぜ生じてきたかについての答も見
えてくるはずである。
[1] 自由民主主義政体の形成過程をどう見るか
 19世紀の前半から後半にかけて、米・英・仏などの欧米先進国では、自由
民主主義政体の形成の過程が進んでいった。具体的過程は国によって異なるも
のの、そこには共通の要因、共通の意図、共通の傾向、共通の着地点が含まれ
ていた。この政体の本質的特徴をとらえるためには、それらを見ておく必要が
ある。
 まず、ヨーロッパ諸国について見ていこう。
 ヨーロッパでは19世紀に入って階級闘争が激化しつつあり、そのために、
新たな政体を階級社会へ適合したものにしていくことが切実に求められていた。
イデオロギー潮流としては、自由主義者と民主主義者の他に、保守主義者と社
会主義者も加わり、複雑なせめぎあいの構図となった。その中で、秩序回復を
願う人々の共通の関心事となっていたのは、民主主義への渇望を持って政治に
参加してくる民衆の力をいかに抑制し、制御するかということだった。イマニ
ュエル・ウォーラーステインは、『近代世界システムⅣ』(2011年)の中
で次のように書いている。
   「 全地球的な秩序の回復をめざす人々にとって驚きとなったのは、人
    民主権の概念は、彼らの認識をはるかに超えて、深く根付いていたこ
    とである。それを葬り去ることは、たとえそうしたいと思っても、不
    可能なことであった。いまや民主主義という妖怪が、名望家層につき
    まとっていた。(中略)したがって、名望家たちにとっては、いかに
    も民主的に見えて、実際はそうではない機構をどのようにして作り上
    げるかが問題だった。しかも、その機構は民衆のかなりの部分の支持
    をとりつけるのでなければならなかったが、そんなことは容易なこと
    ではなかった。したがって、自由主義国家こそが歴史的な解決策とな
    るはずであった。」
 経済的な先進国でもあったイギリス・フランスにおいては、19世紀の前半
から労働者階級の政治への登場が大きな脅威として感じられるようになってい
た。この脅威に対する「歴史的な解決策」となるはずの自由主義国家において
は、何よりも労働者階級と資本家階級の間の対立の解消が目ざされなければな
らなかった。ジョン・スチュアート・ミルの『代議制統治論』は1861年に
出版されたものであるが、この論点に触れて次のように書いている。
   「 現代の社会は、人種や言語、国民としての帰属意識の相違から生じ
    る強い反感で内部分裂していない場合は、主に二つの部分に分かれて
    いると考えてよい。(中略)一方を労働者と呼び、他方を雇用者と呼
    んでおこう。(中略)このような構成の社会状態で、代議制が理想的
    と言えるほど完全になることができ、また、その状態で維持可能とな
    るには、一方で肉体労働者やそれに類する人々、他方で雇用者やそれ
    に類する人々という二つの階級が、代議制の仕組みの中で均衡し、議
    会での採決においてほぼ同数の議員に影響力を持つようになっている
    必要がある。」
 19世紀に初めて基本形が形成された自由民主主義政体は、このように階級
闘争の行方が政治全体の動向を左右する時代に生まれた。C・B・マクファー
ソンが著書『自由民主主義は生き残れるか』の冒頭で述べているように、この
政体の特質は「民主的統治の機構を階級的に分割された社会に適合させようと
して企図されたという事実から生ずる」ものだったと言える。欧州における階
級闘争の激しさを思えば、難度の高い課題だったと見られるが、その答の鍵と
なったのは、「政党制」だった。18世紀から19世紀への政治思想の展開を
描いた後で、マクファーソンは、政党制の発展に焦点を当てて、次のように書
いている。
   「 男子平等選挙権がミルの恐れた階級政府をもたらさなかった理由は、
    政党制がこの民主主義を飼いならすのに異常な成功を収めたことであ
    る。(中略)私が考えるに、政党制が民主的選挙権の開始いらい西側
    民主主義国で実際に遂行してきた機能は、懸念された、あるいはおこ
    りうる階級対立の鋭さをぼかしてしまうことにあった―といってもい
    いすぎではない。(中略)
     階級的境界線をぼかし、それによって相争う階級的な利害を調整す
    るこの機能は、政党制の三つの変種のどれによっても同様にうまく遂
    行されることが見てとれる。(中略)第一の事例(二大政党制)にお
    いては、各党は中間的立場に移動する傾向があり、その中間的立場は
    各政党が明白な階級的立場を避けることを要求する。(中略)第三の
    事例‥実際の多党制においては、どの政党も選挙民に対して明確な約
    束を与えることができない。なぜなら、その政党も選挙民もともに、
    その政党が連合政府において不断の妥協をせざるをえないことを知っ
    ているからである。」(『自由民主主義は生き残れるか』1977年)
 マクファーソンは、こうした分析をふまえて、政党制が自由民主主義政体の
確立と安定化に果たした役割を次のようにまとめている。
   「 政党制が、普通選挙権を不平等社会の維持と折り合わせる手段であ
    ったということである。政党制は争点をぼやかし、選挙民に対する政
    府の(直接の)責任を消滅させることによって、そうしてきたのであ
    る。」
 この役割を果たした政党制は、19世紀中葉までの「名望家政党」のそれで
はなく、19世紀後半の男子普通選挙権の導入とともに発展してきた「大衆政
党」が競い合うシステムのことである。「大衆政党」とは、特に左派の政党に
おいて典型的に見られたものであるが、指導者と幹部たちと支持者大衆からな
る近代的組織をそなえた政党のことである。それは、欧州では1880年代以
降に普及し、20世紀以降の政党政治を準備するものとなった。アメリカの場
合は、イギリス本国からの独立革命という形で国家形成が行われたため、自由
民主主義政体の形成過程もヨーロッパとは異なるものとなった。しかし、政体
の制度設計に込められた意図や、諸勢力のせめぎ合い、最終的な着地点などに
は共通点が見られるのである。政治学者の待鳥聡史は、19世紀前半のデモク
ラシーの変遷を描く中で次のように述べている。
  「 厳格な権力分立の導入によって、議会をはじめとする特定の部門、あ
   るいは特定の政治勢力に権力が集中しないようにした合衆国憲法の理念
   は、十九世紀に入ると変質していく。端的にいえば、権力分立によって
   『多数者の専制』を徹底的に抑止しようとしたマディソンの構想は、後
   退を余儀なくされていったのである。それは、アメリカ政治における民
   主主義的要素の強まり、すなわち民主化だったとも言える。
    その原動力となったのは、政党であった。最初の大統領となったワシ
   ントンは挙国一致内閣を形成したが、彼の下に集結した建国の父祖たち
   の間には、次第にアメリカという国家の理想像や具体的な政策をめぐっ
   て相違が生まれるようになった。そして、ワシントンが二期八年で大統
   領の座から降りると、一七九六年の大統領選挙からは政党に分かれて候
   補者を立てることになった。」(待鳥聡史『代議制民主主義―「民意」
   と「政治家」を問い直す』2015年)
  「 しかし、政治に関与するエリートが相互に競争し、抑制し合うことに
   よって、特定の勢力が権力を持ちすぎないようにする、という構図は守
   られている。民主主義を抑止する役割を代わりに担うようになった多元
   的政治観、そしてその延長上にある自由主義は、当初ほど圧倒的ではな
   くなったにしても、依然として生命力を保っているといえよう。言い換
   えるならば、アメリカ政治の基本構図は、建国当初の共和主義による民
   主主義の抑止から、合衆国憲法制定直後の多元的政治観(マディソン的
   自由主義)による民主主義の抑止を経て、今日の自由主義と民主主義の
   併存へと変化したのである。」(同上)
 こうした欧米各国の歴史からわかることは、自由民主主義政体が形成される
前段階においては、各イデオロギー潮流間のせめぎあいが見られたこと、とく
に民主主義的潮流への警戒感が強かったことである。さらに、注目すべきだと
思うのは、自由民主主義政体の変化と最終的確立のカギになったのが大衆政党
だったことである。初期の近代的政党=大衆政党は、大衆と政治の結びつきを
作り出したという点で民主化の役割を果たすと同時に、一方では「階級対立の
鋭さをぼかす働き」も持っていた。マクファーソンが言うように、「政党制は
民主主義を飼いならすのに異常な成功を収めた」のであり、ウォーラーステイ
ンが言うように「いかにも民主主義的に見えて実際はそうではない機構を作り
上げる」ための有効な手段となったのである。
[2] 大衆政党の時代
 19世紀の欧米の政治における政党の力の伸長は、初めに自由主義者の主導
でデザインされた政体の性格が、各国の歴史の展開により民主主義的な方向に
変わっていったことを示しているように見える。また、共通して見られた名望
家政党から大衆政党への移行も、政党制自体の民主化だったようにも見える。
 しかし、欧州の大衆政党の研究やアメリカ史の詳しい記述を見ると、これら
の変化が単純に民主化と言えるのかどうかという疑問が湧く。なので、まず、
この論点について考えてみたい。
 有賀貞『アメリカ史1・2』(1993・1994年)には、アメリカにお
ける政党政治の時系列的変化の記述が多く含まれている。19世紀後半につい
ては、以下のような記述が見られた。
  「 南北戦争後・・この時期は二大政党への帰属意識が強かった。どちらの
  党も似たりよったりで、政策的意味を欠いていた。共和党は自党を分裂の
  危機から救った『愛国』の党、奴隷を解放した『改革』の党として描き、
  民主党は反中央集権、『個人的自由』を打ち出すことによって共和党政権
  に不満を抱く人々を引きつけることに成功した。」
  「 二大政党は70年代、80年代の社会の要請や人々の要求に積極的に対
  処する姿勢を見せず、ともに官職と利権あさりに狂奔する職業政治家のよ
  うに見えた。にもかかわらず、各選挙の投票率は高く、人々の政党帰属意
  識はきわめて強く、似たりよったりの政党の間の選挙戦は激烈をきわめた。」
  「 政党も連合体にすぎなかった。・・このような党組織を運営し、有権者
  を確保するための活動を行えたのは、政治を職業としていた人々のみであ
  った。こうした人々は非公式の内部組織『マシーン』を通じて活動した。」
 これらの記述からわかるのは、以下のようなことである。
  1. アメリカでは、19世紀中葉には大衆政党への変化が進んでいた。
  2. 各政党とも固定的な支持者層を持ち、その人々の政党帰属意識は強か
    った。
  3. 支持者たちは政策によって投票先を決めると言うよりは、党のイメー
    ジによって選んでいた。その選好は固定される傾向があった。
  4. 政策の決定は、職業政治家たちによってなされていた。
  5. 党に属する政治家たちは、社会の要請や人々の要求に積極的に対処す
    る姿勢を見せていなかった。
  6. にもかかわらず、国政選挙における投票率はきわめて高く、人々の政
    治への関心は高かった。
  7. 党の活動のために中心的役割を果たしたのは、非公式の内部組織であ
    る「マシーン」であった。
 アメリカ政治の「民主化」の内実は、このようにきわめて限定されたものだ
ったことがわかる。それは二大政党の組織内についても言えることであり、そ
こでは職業政治家たちが「マシーン」を通じて、内部の動きを統制していたの
である。一般の党員たちは組織拡大や選挙戦勝利のために党の方針どおりに動
く存在となり、大組織の中での分業関係が発達していった。
 政治社会学者マックス・ウェーバーは、1919年の講演の中で、アメリカ、
イギリスにおける大衆政党の組織の実態について次のように語っている。
  「 この名望家支配、とくに代議士支配の牧歌的状態と鋭い対照をなして
   いるのが、次に述べる最も近代的な政党組織である。これを生みだした
   のは、民主制、普通選挙権、大衆獲得と大衆組織の必要、指導における
   最高度の統一性ときわめて厳しい党規律の発達である。名望家支配と代
   議士による操縦は終わりを告げ、院外の『本職』の政治家が経営を握る
   ようになる。(中略)形の上では広汎な民主化がおこなわれる。(中略)
   組織された党員の集会が候補者を選び、上級の党集会に代表を送り出す
   ようになる。もちろん、実際に権力を握っているのは、経営の内部で継
   続的に仕事をしている者か、でなければ、政党経営の根っこのところを
   金銭や人事の面で抑えている人間たちである。(中略)こういうマシー
   ンの登場は、換言すれば、人民投票的民主制の到来を意味する。」
  「 すべての権力は党の頂点に立つ少数者の手に、最後には一人の手に集
   中されることになった。事実イギリスの自由党では、グラッドストンが
   権力の座に登るのと結びついて全機構が急速に膨れ上がっている。この
   マシーンがあのように急速に名望家に勝てたのは、グラッドストンの
   『偉大な』デマゴギーの魅力、彼の政策の倫理的内容、とくに彼の人格
   の倫理的性格に対する大衆の確固たる信頼によるものであった。政治に
   おける一種のカエサル的=人民投票的要素、つまり選挙戦における独裁
   者がこうして登場した。」(『職業としての政治』1919年)
 ウェーバーは、アメリカにおける同様な変化は1840年代初期におきたと
言っている。その経過と政党マシーンについて語った後で、この変化が民主制
にもたらした結果を次のように語っている。
  「 人民投票的指導者による政党支配は、追随者から『魂を奪い』、彼ら
   の精神的プロレタリア化―とでも言えそうな事態―を現実にもたらす。
   追随者は盲目的に服従しなければならず、アメリカ的な意味でのマシー
   ンでなければならない。」(同上)
 このように、大衆政党化した近代政党においては、一人の指導者または複数
の派閥指導者たちの支配が確立されていく。彼らに従いつつ党機構を動かして
いくのは、党組織の官僚たちである。一般の党員たちは、指導者と官僚たちの
作り上げる運動方針や政策案を支持して、推薦された候補者に投票したり、集
会やデモに動員される受動的な参加者となっていく。このような性格・特徴を
持つ「大衆政党」は各国に普及し、20世紀の前半、さらに後半の1970年
代まで続く政党モデルとなった。
 ウェーバーと同時代に生きた政治社会学者のロベルト・ミヒェルスは、民主
主義的な政党は必ず寡頭制化すると考えて、どうしてそうなるかを理論的に説
明して見せた。彼は、大きく分けて、「技術的・管理的」・「心理学的」・
「知的(能力的)」という3種類の要因があるとしている。具体的には以下の
ようなことである。
  1) 技術的・管理的要因
   ① 現代の民主主義において、経済的・社会的・イデオロギー的に同じ立
     場にある人々は、自分たちの目的を実現するために結集し、大規模な
    組織を形成することを必要としている。
   ② 組織が大規模化し、複雑化するにつれて、その管理・運営は専門的知
    識を必要とするものとなり、官僚化が進む。
   ③ 現代の政党は闘争の組織であるため、中央集権的で寡頭制的なものに
    なる必然性を持っている。
   ④ 組織内部の権力は次第に少数の指導者たちに集中するようになり、一
    般の成員は彼らに依存するようになる。
  2) 心理的要因
   ① 大衆は、政治的決定に参加することに自発的欲求を持っていない。む
    しろ、専門的な人たちや指導者に任せ、負担を免れたいという欲求を
    持っている。
   ② 大衆は個人崇拝への根深い衝動を持っている。党の指導者を崇拝し、
    感謝の念を持つようになる。
   ③ 指導者は、代表としての地位を得ると、これを維持していくことに執
    着するようになる。党内の批判者たちを排除しようとする。
  3) 知的要因
   ① 職業的指導者層の成立は、彼らと一般党員との間の知的能力の格差を
    著しいものにする。
   ② 決定を下すことのできない大衆の無能力は、指導者の権力の定着化を
    きわめて強固なものにする。
   ③ 指導者たちはその職務の遂行の中で知的能力を伸ばしていき、ついに
    は出身の階級との一体感を喪失するまでになる。
 以上のようなミヒェルスとウェーバーの政党論は、当時の大衆政党が各国の
階級社会を背景として成長してきたものであることを示している。それぞれの
政党が固定的支持者層を持っていたことや、支持者の大衆が党の指導者に対し
て熱い帰依の感情を持っていたこと、指導する者とされる者の間に明確な差異
がありつつも両者の心理的紐帯は強かったことなども、この事情をもとに考え
れば、自然な結果として理解することができる。
 このような特徴を持つ大衆政党にもとづく政党制は、自由民主主義の政体を
階級社会に適合したものにするために大きく貢献したと言えよう。こうした組
織にもとづく自由民主主義政体は、民主主義の理念の実現という視点から見れ
ば数々の問題点を持ちながらも、代議制のシステムを確立し、20世紀前半に
おける国民国家の政治体としての役割を果たしていくことになった。

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第1部4章  自由民主主義政体の来歴(2) [提言]

第1部
4章 自由民主主義政体の来歴(2)―第2次大戦後から現在まで

1節 福祉国家の時代
 第2次大戦というきわめて大きな試練をくぐり抜けた自由民主主義政体は、
戦後の一時期、資本主義の発展の中で福祉国家化の局面を持つことになった。
1945年から70年代頃まで、戦後期の始まりからオイルショックなどで各
国の経済状況が大きく変わるまでのことである。
 初期の自由民主主義政体が「階級社会への適合」という歴史的役割を持って
いたのに対して、この時期のそれは「国民国家を冷戦構造という現実に適合さ
せる」という役割を持つようになった。
 第一次大戦が総力戦となったことで女性を含めた普通選挙制度の導入が必要
になったように、第二次大戦後の東側陣営との対峙は、西側の国家にとって国
民的福祉制度の拡充による階級間の和解とそれによる社会統合の強化を必要な
ものとしていった。もちろん、戦後における経済状況の好転も追い風となった
のであるが、「冷戦」のもたらす不断の緊張状態の中では、何よりも「城内平
和の確保」を必須の課題とするプレッシャーが強く働いていたのである。
 このことは共通の要因であったが、どんな政党が政権についていたかによっ
て、それぞれの国家の福祉国家化に向かう積極性の度合いは異なっていた。例
えば、社会民主主義政党が政権をとったイギリス、スウェーデンなどは最も積
極的であり、「ゆりかごから墓場まで」という手厚い福祉制度がいち早く確立
されていったのである。これに対し、自由主義政党が政権を持っていた日本、
アメリカなどはそれほど積極的ではなく、導入の時期も遅かった。しかし、い
ずれにせよ、これが国家政策の基調となるためには、その国内部の自由主義勢
力と社会民主主義勢力の間の合意が必要であり、それが成立していったことか
ら、西側陣営の政治体制は「戦後和解体制」と呼ばれるようになった。
 そうした性格を持つ福祉国家のもとでは、どのような制度、政策が行われて
いったのか。政治学者の藤井達夫は、その統治の一般的特徴を以下のようにま
とめている。
 「 まず、福祉国家の下で暮らす人びとには、社会権を有する社会的市民―
  社会的なものの構成員としての市民―という法的地位が保障される。日本
  国憲法でいえば、生存権に始まり、教育を受ける権利、労働する権利など
  がこの社会権に当たる。次いで、この社会権に基づき、社会保険と社会福
  祉事業が国家の責任の下で制度化される。最後に、ケインズ主義だ。政府
  が自由競争を原則にするはずの市場に介入し、財やサービスの交換に対す
  る規制をかけることで市場を管理調整する。介入と管理をとおして、人々
  の生活の安全を守ると同時に、市場による社会の破壊を防ぐことを目的と
  した社会・経済政策。これがケインズ主義である。」(『代表制民主主義
  はなぜ失敗したのか』2021年)
 「戦後和解」は、自由主義・社会民主主義という2つの政治勢力間のみなら
ず、労働者・資本家という2つの階級の間にも成立した。福祉国家が作り出す
制度的枠組みに基づき、労組と企業、労働団体と使用者団体が整然と交渉を行
い、富の配分について合意に到達するようになった。階級対立が無くなったわ
けではないが、両者の関係はかなり安定したものになっていったのである。
 この時期は、代議制民主主義の歴史を語る本の中では「デモクラシーの黄金
期」と表現されることが多いのであるが、「黄金期」という評価には疑問を感
じるところがある。というのは、この時期においても「大衆政党」の特徴であ
る党内の寡頭制的傾向は変わっていないこと、労資の協調にもとづいた政党間
の妥協の政治は、政党に所属していない一般有権者にとっては縁遠いものにな
っていたことなど、民主主義の形骸化を示すような特質も見られたからである。
こうした政治によって取り残された問題は数多くあり、60年代後半には、直
接それらの問題に取り組む多様な社会運動の噴出が見られた。同じ時期に先進
諸国に共通して見られた学生運動の昂揚は、擬制の民主主義の下での支配や抑
圧の構造に対する不満・憤りの表出という性格を持つものでもあった。

2節 デモクラシー変容の時代
 戦後しばらくは福祉国家の特徴を示して安定していた先進諸国の政治体制は、
70年代から90年代にかけて大きく変容していく。その中で次第に姿を現し
ていったのは、福祉国家の反転とも言うべき社会・経済・政治の体制だった。
このような大きな変化は幾つかの歴史的要因が重なって生じたのであるが、中
でも最大の要因となったのは、70年代以降の世界経済の変化と、これに適応
すべく西側の諸国が採用した新自由主義政策の遂行だった。その結果生み出さ
れたのは、一方では格差社会化を始めとする社会・経済の変貌であり、他方で
は「デモクラシーの衰退」につながる民主政の変容である。この節では、西側
先進諸国においてこれらの変化がどのようにして始まり、展開していったのか
を見ていく。時代の区切りは70年代から90年代末までとし、その後の展開
については「デモクラシー衰退の時代」と題する次節で見ていくことにする。
[1]政党の変貌―大衆政党から包括政党へ
 19世紀末から20世紀初めにかけて生じた「大衆政党」という政党の基本
的性格は福祉国家の時代にも見られたのであるが、70年代になると、この面
の変化が始まった。
 まず、有権者と政党の結びつきが緩くなり、固定的ではなくなってくるとい
う変化が見られた。それまでは、「凍結仮説」(リプセット=ロッカン)とい
う理論的説明がなされるほど、各政党は安定した支持者層を持ち、彼らの代表
という意識で行動することができていた。この支持者層には階級的分布という
面ではっきりした特徴が見られ、左派の政党は労働者階級の党という性格を持
っていたのである。しかし、時がたつにつれて、そうした階級区分と党の支持
者層との対応関係は薄くなっていった。それとともに、心理的な結びつきも弱
くなり、支持する気持ちも帰属意識というものではなくなっていく。投票行動
においても、毎回同じ党の候補者に投票するとは限らない人たちが増えていっ
た。待鳥聡史の前掲書は、この局面を次のように描いている。
  「 かくして、1980年代に入る頃までには政党システムの凍結は消滅
   し、戦後和解体制も実質的に解体した。有権者と政党の関係は流動化し、
   無党派層の増大や新党の急激な盛衰、さらには政治不信の高まりなどが
   各国で見られるようになった。それは少なくとも一面においては、政党
   や労働組合といった既成の回路によっては有権者の利益表出が十分にで
   きなくなったことの表れであり、代議制民主主義の安定にも大きな影響
   響を与えた。政策決定の最も重要で正統な場である議会には、有権者の
   意思すなわち民意が適切に表出されていないという認識につながる変
   化だったからである。」(待鳥聡史『代議制民主主義』2015年)
 こうした全体状況の中で、政党の行動や組織にも変化が生じた。固定的支持
者層が減る中で選挙戦に勝ち抜くためには、より幅広い有権者の票を獲得でき
るように政策の内容、メニューを決めることが必要になる。選挙戦略を練るこ
とも重要になった。政党理論では、こうした特徴を持つタイプのものを「包括
政党」と呼んでいる。この時期、先進国では多くの政党が大衆政党から包括政
党へと変わっていったのである。
 包括政党においては、組織の性格・特徴も変わってくる。運動の効率性が重
視されるため、意思決定はトップダウンの方向でなされることになる。活動資
金は党員が納める党費だけでなく、多方面からの献金も合わせたものになる。
そのため、党活動は献金してくれる団体などの利害を考慮したものになる。
政党が諸団体の利害を政治・行政に反映させるための仲介役にもなっていった
のである。
 それぞれ大きな変化だったと言えるが、変容期に起きた政党の変化は以上の
ようなことだけでは終わらなかった。新自由主義的政策を軸とする政治が各国
に広まる中で、政党自体にも民主主義の衰退・形骸化をさらに促進するような
変化が生まれていったからである。その具体的な内容についてはこの節の終わ
りに述べることにして、ここでは、以上のような変化がなぜ起きたのか、各国
共通の要因に触れておこうと思う。
 その主な要因としては、世界資本主義の構造変化の中で先進諸国経済のポス
ト工業化が進むにつれて、先進国に住む人々の階級状況・意識が大きく変わっ
ていったことが挙げられる。先進国では、労働者階級の人口割合が減っていく
と同時に、豊かな社会に変わる中で中流意識を持つ人々が増えていき、階級意
識は不明確で希薄なものになっていった。この時期に労働組合への加入率が次
第に低下していったことも、そのことを示している。社会の中のこうした変化
に適応すべく、政党の側も基本戦略や組織のあり方を見直していくようになっ
た。その結果、これらの国々では、包括政党への転換が一般的なものとなって
いったのである。
[2]保守政権がとった新自由主義政策路線の影響
 西側諸国において新自由主義政策が普及する時代は、1980年ごろから始
まった。これも一部の先進諸国から始まったものであるが、90年代に入ると
多くの国々に広がっていく。そうなったのは、この現象も70年代以降のグロ
ーバル資本主義の発展が生み出したものであり、その結果、90年代以降は新
自由主義政策が普及する必然性を帯びるようにもなっていったからである。
 しかしながら、保守系の政権がこの政策路線をとって実行していく場合とリ
ベラル系または社民系の政権が同様な政策をとる場合とでは、政治的な意味合
いが異なり、政体に及ぼした影響にも異なるものがあった。なので、この点を
意識しながら、まず、保守政権の場合の典型としてイギリスの事例を見ていく
ことにする。
 イギリスにおいて最初に新自由主義的諸政策の実施を目ざしたのは、197
0年に政権に就いた保守党党首のエドワード・ヒースだった。しかし、その試
みは72年の第1次石油ショックがもたらした景況悪化、スタグフレーション
の始まりによって頓挫する。ヒース政権は、国家介入的な産業政策路線に立ち
戻ってこの局面を切り抜けようとし、労使関係の政策においても労働組合との
合意を目ざすようになっていった。
 サッチャーは、ヒースのこの「Uターン政策」を批判しつつ、党内ニューラ
イト勢力の支持のもと、75年の保守党党首選に勝利した。79年5月には、
連合王国総選挙でキャラハン首相の率いる労働党を破って、首相に就任する。
その後、90年11月の辞任に至るまで、広範囲にわたる「保守革命」の政治
を行い、新自由主義的なイギリス経済を作り上げていったのである。
 1940年代以来築き上げられてきた福祉国家体制とその中で培われた労働
者・市民の権利意識を思えば、それは容易なことではなかった。しかし、サッ
チャーはさまざまな抵抗の動きを一つずつ粉砕しながら、国家と社会・経済の
改造を進めていった。同時に国民の意識の面では、ナショナリズムの昂揚とと
もに、新自由主義のイデオロギーを浸透させることにも成功したのである。サ
ッチャーは、これらの実現を目ざす中で、政権の運営および政体組織の実態と
いう面でも変化を生みだしていった。
 1つは、福祉国家を支えていた諸勢力に対しては非妥協的な態度をとり、権
力構造から排除していったことである。これは労働党や戦闘的な労働組合はも
とより、保守党内の穏健派勢力である「ウェット派」に対しても行われた。例
えば、長谷川貴彦の「イギリス現代史」(2017年)には、次のように書か
れている。
  「 一連の非妥協的な対決の姿勢は、サッチャーに『鉄の女』というイメ
   ージを付与していったように思われる。それは、戦後の『コンセンサス
   政治』からの離脱を目指す過程を表現していた。こうしたサッチャーの
   強硬な姿勢に対しては、保守党内部でも意見が分かれた。穏健派のイア
   ン・ギルモアなどの『ウェット』と呼ばれる閣僚がいたが、サッチャー
   は彼らを閣内から追放していった。」
 このことは、政権を支える勢力が福祉国家に親和的な「旧右派連合」から新
自由主義に親和的な「新右派連合」に変わっていったことの表れでもあった。
新右派連合というのは、グローバル企業・金融資本・新エリート官僚・シンク
タンクなどの新自由主義を推進する勢力と宗教右翼・右翼知識人・著名人・ニ
ューライト組織などの新保守主義を支える人々のゆるやかな連結体を意味する。
レーガン政権期のアメリカ、小泉政権期の日本でも同様な変化が起きていたの
で、これは保守政権が新自由主義への政策転換を行う場合に起きる変化として
捉えることができる。これが1つ目の変化である。
 2つ目には、政治の寡頭政化が進んだことである。イギリスや日本のように
議院内閣制をとる国では、首相が大統領のようにふるまうようになった。アメ
リカでも、大統領への権力集中が進む現象が見られた。これは、頂点に立つ政
治家と有権者が直接に結びつく傾向が強まったためである。その中で、サッチ
ャーや小泉のように、ポピュリスト的な一面を持つ指導者も現れるようになっ
た。高い支持率を背景にして、改革に抵抗する勢力に対決する姿勢をとり、強
引な政治を進めることも可能になったのである。
 3つ目に、政権と企業エリートとの関係がより密接なものになっていったこ
とである。政権は「国を強くする」ために、グローバル企業と金融資本の発展
に力を入れる。企業や金融資本は、自分たちの利潤獲得活動をより自由により
広範に展開するために、国家の力を利用したいと考える。新自由主義的改革が
中心課題となる中で、こうした両者の関係は政治に強い影響力を持つものとな
った。また、両者の意向を実現していくためには、官僚の力も欠かせないもの
となる。そのため、政財官のエリートの結合も深まり、新右派連合の中核部分
をなすものとなっていった。
 4つ目に、右傾化の加速と、それをめぐる対立が深まっていったことである。
保守政権の新自由主義的改革が進む中では、同時に軍事・教育・文化などの領
域で右派が待望する諸政策も実現しやすくなった。全体として「右傾化」が進
行しやすくなったわけであるが、そのことは、左派やリベラル派に大きな危機
感を持たせ、国民の中にも深い分裂を生み出した。社会の中では、これと関連
して、人種差別の風潮とこれをめぐる対立も強まっていったのである。
 5つ目に、政治的対立が深まる中で、議会の審議が実質的な意味の薄いもの
になっていったことである。コンセンサスの政治から対決の政治へと基調が変
わる中で、議会は与党勢力が数の力で自らに有利な決定を勝ち取る場という以
外の意味は持たなくなる。ここでも、代議制民主主義の意義が薄れていくとい
う意味を持つ変質が進むことになった。
 以上のように、80年代からの保守革命・新自由主義化の政治の下で、自由
民主主義政体の現実の姿には大きな変化が生じ始めた。その影響はいずれも一
過性のものではなく、90年代以降にも続いていく基本的特徴を生み出すもの
となったのである。
[3]社民政権とリベラル政権による新自由主義政策路線の影響
 一方、社民系の政権において新自由主義政策への移行が行われた場合はどう
だったか。90年代イギリスのブレアー政権を見てみよう。
 トニー・ブレアーが労働党の党首になったのは、1994年のことである。
それまで15年間も保守党政権が続き、労働党は総選挙に敗れ続けてきた。政
権に返り咲くためには、党の思い切った刷新が必要とされており、中道路線へ
の転換を唱えるブレアーが選ばれたのである。若き指導者ブレアーのもと、労
働党は左派の政党から中道の党へと大きな変身を遂げていく。新自由主義の考
え方を組み入れた「第三の道」を基本理念として、グローバル資本主義の時代
への適応を図っていくようになったのである。
 この変身は成功して、新しい労働党は97年総選挙に勝利し、政権に復帰し
た。政権発足後、ブレアーは「知識に基づいたサービス型経済」を唱え、投資
の活性化を図っていく。一方で、結果の平等よりも機会の平等を強調し、それ
を実現するための教育の意義を強調した。活発な自由競争による豊かな社会を
目ざすという点では新自由主義と変わらなかったと言える。
 こうした政策の下では格差の拡大と貧困層の増加が当然の結果となるが、そ
れに対処するための福祉政策という面でも大きな転換が図られた。「福祉から
労働へ」をスローガンとして、就労支援による救済が目ざされるようになった
のである。生活保護の受給条件は厳しく制限され、それによって受給者がブレ
アー政権の間に60%も減少するという変化が見られた。こうした点からも、
労働党はもはや労働者階級の党ではなくなっていたことがわかる。
 党の変化は、党員や所属議員の属性分布の変化にも表れた。長谷川貴彦の前
掲書によれば、ブレアー党首の下で以下のような変化があったという。
  「 党首の指導力は、党にリクルートされた新規一般党員によって支えら
   れたが、この新規党員は、私企業に対して好意的であり、労働組合には
   あまり親近感を持たず、富の再分配に関心が薄いことが明らかとなって
   いる。」(同上)
  「 1997年5月・・新たに選出された労働党の議員は、労働組合の叩
   き上げの活動家が少数派となり、それらに代わって、ジャーナリストや
   弁護士などの中産階級専門職、移民や女性、セクシュアル・マイノリテ
   ィ(LGBT)が意識的に登用された。このことは、労働者階級・労働
   組合の党から中産階級の多文化主義の党へという、労働党の変容を象徴
   するものだった。」(同上)
 ブレアーは、こうした党を基盤としてさまざまな改革を行っていった。その
ための政治スタイルは、サッチャーと同様にトップダウン的なものであり、少
数者による政策決定の方式が多用された。党や議会を通してよりは、直接に国
民に語りかける中で支持を得るスタイルも特徴的なものとなった。彼もまた、
大統領的な首相となったのである。
 社民政権が新自由主義政策路線を推進する時には、政体の実態という点では
どのような変化が生ずるのか。主な変化として以下のようなことが挙げられる。
 1つは、保守政権とも共通する政策が行われることが多くなるため、主な政
党の間で政策面の差異が小さくなることである。そのため、そうした政策に利
益を見出せない人々にとっては、どちらの党にも投票したくないという気持ち
が強まる。無関心層が増加し、投票率も低下していく。
 2つ目に、政策が似たようなものになるにもかかわらず、政党間の対立は厳
しくなることが多い。これは、どの国でも価値観、文化的信念の対立にもとづ
く事柄が政治的争点になることが増えたためである。この領域では、保守と広
義のリベラルとの間での意見の相違は非和解的なものになることが多いのであ
るが、90年代以降はナショナリズムの問題とも重なって厳しさを増していっ
た。
 3つ目に、政治全体の寡頭政化が決定的なものとなる。いずれの党も政治エ
リートと経済エリートが結託する中で主な政策の決定がなされていくためであ
る。多くの議員たちは従属的な役割しか果たさなくなり、代議制民主主義の形
骸化は一層強まる。
 これと関連して、トップダウン的な政治スタイルも常態化していく。新自由
起きてくる。それらの抵抗を排して実現しようとするにはトップダウン的なス
タイルが必要となり、政党の中でも容認されやすくなる。代議制民主主義の実
態は、ますます民主主義から遠ざかっていくのである。
 4つ目に、主要政党の政治がエリート主導のものとなることから、これに反
発する右翼ポピュリスト政党や政治家が浮上する現象も生じやすくなることで
ある。ヨーロッパにおける新右翼の勢力伸長もその例であり、アメリカのトラ
ンプ現象も同様な原因によるものである。これらの勢力が政権を取った場合、
民主主義の暴力的な破壊という事態も生まれやすくなる。ヨーロッパの場合は、
EUへの反発とも重なり、この側面の問題性はますます深まる傾向にある。
 5つ目に、社民系の政党の性格が変わることにより、労働者階級の利益実現
を望む人々の中では失望感が広がることである。国によっては、この時期に共
産党が急速に衰えていく現象も見られ、その結果、長年続いていた左右の対立
が消滅することになった。
 リベラル政権が新自由主義路線を選んだ時も、上から4つ目までについては
同じことが起きている。そこから発生する民主主義の諸問題もよく似たものに
なってきているのである。こうしたことを前記の保守政権による導入の場合と
合わせてみると、新自由主義の席巻が民主政体に及ぼした影響はきわめて大き
かったと言える。
[4]新自由主義席巻にともなう政党の変化
 新自由主義時代の変化のうち、政党に関して起きたことは、より詳しく見て
おくべきだと考える。政党制は選挙制度とともに代議制民主主義の中軸をなす
ものだからである。
 最初に書いたように、大衆政党から包括政党への変化が進んでいたわけであ
るが、新自由主義化が始まった国々では、政党の変質が一層際立ったものとな
った。イギリスの経済社会学者コリン・クラウチは、民主主義政党の基本モデ
ルを中心部から周辺部へと広がる同心円構造として示した上で、この構造を変
えていくような変化が起きたと述べている。
  「 これまでの章で述べた企業の台頭や階級構造の混乱といった近年の変
   化は同心円モデルに大きな影響をおよぼしてきた。(中略)中枢である
   執行部の形が党内の他の円との関係において変化する。それは楕円にな
   るのだ。変化の発端はつねに同じで、党のリーダーたちと、党の中心に
   おいて執行部への昇進か政策の成功という精神的な報酬を求めるプロの
   活動家たちである。だが、党とその目標に共鳴しながら、もっぱら金銭
   のために活動する者もいる。また、仕事をするために党に雇用された純
   粋な専門家もいて、彼らは必ずしも政治上の支持者ではない。さらに重
   要なのは、こうしたグループがいずれも、政治家と接触するために政府
   の業務に関心を抱く企業のロビイストのグループと重なり、影響しあう
   ことだ。(中略)今日、与党もしくは政権にふさわしい政党は、民営化
   と外部委託に深く関与している。(中略)こうした仕事を獲得したい企
   業は、与党の政策決定機関と長期的関係を維持するのが賢明である。そ
   して企業の人間が一定期間を顧問として過ごし、党の顧問が企業のロビ
   イストとして職を得る。こうして党中枢の円は党内の各階層を超える楕
   円となって広がっていく。」(『ポスト・デモクラシー』2003年)
 こういう変化が起きると、大衆政党にはあった民主制的要素は確実に失われ
ていく。寡頭政的な決定のし方、トップダウン的な活動のし方に変わっていく
からである。
 「 党執行部から見れば、古い活動家で形成される円よりも新しい楕円との
  関係のほうがはるかに楽で、情報に富み、見返りが大きい。(中略)近年
  の傾向から推して考えるなら、21世紀の典型的政党は自己繁殖する内部
  のエリートで構成される党となるだろう。彼らは大衆運動の基盤からは遠
  い反面、複数の企業を根城とする。そして企業のほうは、世論調査や政策
  的助言、集票業務を外部委託するための資金を提供し、それと引き換えに
  党が政権を握った際は政治的影響力を求めるのである。」(同上)
 このような新しい類型の党が目標とするのは、絶えず揺れ動く有権者大衆の
状況をマーケットのように分析しながら、最も効果的な選挙戦略を練り上げて、
政権獲得につながる得票を獲得することである。この点においては左派の政党
も右派の政党も変わりがないため、上記のような特徴が共通のものとなったの
である。新自由主義時代の政党は、本質的に企業のようなものへと変わってい
ったのである。
 このような政党によって営まれる政治は、エマニュエル・トッドの言うよう
に「操作の政治」という性格のものとなる。新たな政党に属するプロの活動家
たちにとって「有権者は、政治家が仕える存在ではなく、政治家に操作される
存在」と見なされている。また、メディアというものも、彼らにとっては、国
民にメッセージを伝えるための媒体ではなく、操作のために要領よく利用すべ
き手段となる。
 そうなると、自由民主主義政体における民主主義的要素はさらに弱まってく
る。有権者の政治的意思の表出のルートと見なされていた政党が、そのような
機能は果たさなくなるからである。政党は、政治家たちが権力を獲得していく
ための道具、政治家たちの意思の調整の場にすぎなくなる。この面からも、デ
モクラシーの衰退は必然的な結果になっていくわけである。
[6]新自由主義の席巻はなぜ起きたのか
 70年代から始まり、80年代に加速した先進諸国での新自由主義政策への
転換は、それまでの社会のあり方、政体の運用のし方を大きく変容させるもの
となった。社会の面では格差社会化が急速に進行し、福祉政策の転換とあいま
って、貧困層の増大が大きな問題となってきた。政治の面では寡頭政化が一層
進行し、民主主義の形骸化の程度が強まって、強権政治化と右傾化の傾向がは
っきりしてきた。先行の福祉国家の下での政治・社会のあり方と比べれば、ま
ったく異質なものへの転化が進行していることがわかる。
 それでは、このように問題点の多い新自由主義政策がなぜ採用され、普及し
ていったのだろうか。その根本的な原因を考えてみたい。
 米・英両国における新自由主義への転換は、すでに70年代に始まっている。
政権の動機はスタグフレーションおよび財政悪化からの脱出にあったが、その
背景には、グローバル経済の進展がもたらす構造的問題があった。一つは新興
資本主義諸国の急速な工業化による追い上げである。技術の移転と賃金の格差
を考えれば、新興諸国が貿易競争において有利になるのは当然のことであり、
先進国の大企業は、これに対応すべく海外への工場移転、多国籍化を図ってい
った。
 こうした実体経済の面での変化が進む一方、金融経済の面でも変化のプロセ
スが始まっていた。これも、出発点になったのは、米・英両国の金融自由化で
ある。両国はスタグフレーションの苦境にあっても、金融経済の面での成長は
続いており、金融の自由化を図ることによって、これを強化していった。特に
アメリカは、金融資本主義を柱に新たな帝国としての地位を確立していく。そ
の体制の下で金融グローバリズムが急速に進展していったのである。
 こうした流れを背景にして考えれば、各国政府のそれぞれの時点での新自由
主義化はグローバル経済の変化に対応するためのものであったことがわかる。
 競争に勝つために、実体経済の面では生産コストの削減を図る必要があり、
新自由主義政策はその強力な武器となる。金融経済の面でも、自国金融資本が
競争に勝てるようにするには、金融自由化が必須のものとなる。一国がこの方
向への転換を図ると、他の国々も国際競争に勝つために追随していくことにな
る。世界的にこういう状況になったため、新自由主義政策をとる国が増えてい
ったのである。
 特にこの政策を積極的に推進しようとしたのは、レーガンやサッチャーのよ
うにナショナリズムの志向が強い政治家であり、政権である。彼らは、国と企
業の競争力を高めることが最も重要であると考え、そのためには自由競争が活
性化される社会、新自由主義の社会が望ましいと考えていた。そこでは、自ら
の属する国家と国民経済を強くすることが一番の関心事であり、そのために犠
牲になる人々がいても「改革の痛み」として正当化された。
 これらの事実をもとに考えると、新自由主義が席巻した時代の自由民主主義
政体の歴史的役割は次のように規定できると思う。
 〈 新自由主義席巻期の自由民主主義政体は、グローバル経済の変動の時代
  に国民国家を適応させるためのものである。 〉
 以上述べてきたように、70年代以降は世界的な資本主義経済の変動が最大
の要因となり、それと各国民国家の浮沈がからむ中で、民主制の変質、衰退が
進行していったのである。次章では、民主制の変質がもたらす「デモクラシー
衰退」の問題について欧米日の論者たちの見方を紹介しつつ、この節の内容と
も結びつけて、改めて考察してみようと思う。

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第1部5章 「民主主義の衰退」について [提言]

第1部
第5章 「民主主義の衰退」について


はじめに
 前章で見たように、70年代から90年代にかけては、グローバル経済が発
展し変動していく中で、先進諸国における民主主義の変容が進んだ。21世紀
にはこの傾向が周辺の国々に広がると同時に、分断の激化や権力の私物化、権
威主義的ポピュリズム政権の増加など、さらに危険度の高い現象も相次いで見
られるようになった。このため、民主主義の危機や衰退を語る論者たちも増え
てきている。変容のどの側面を重視するかは論者によって異なり、主な原因の
説明も異なるのであるが、それぞれ参考に値する論考になっていると感じられ
る。この章では、近年のデモクラシー衰退論の類型を示した上で、いくつかの
代表例を見ていく。それらをもとに、衰退の真相と主要な原因を考えていこう
と思う。
1.「分断化」重視型
 これは、先進諸国の政治において有権者同士が鋭く対立し合うようになって
いることを「分断」と表現し、それによって民主主義の危機が深まり、消滅の
危険さえ孕んでいると警鐘を鳴らすものである。典型的な著作としては、アメ
リカの政治学者スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラットの共著によ
る『民主主義の死に方』(2018年)がある。
 二人はこの本の冒頭で以下のように自分たちの問題意識を表現している。
  「 アメリカの民主主義は危機にさらされているのか?(中略)
    この2年(註:トランプ政権期の前半にあたる)のあいだに多くの政治家
   がとった言動は、アメリカ合衆国では前例のないものばかりだった。しか
   し、それは世界の他の場所で起きた民主主義の崩壊において前兆となって
   きたものだった。(中略)
    アメリカだけの話ではない。専門家たちは、世界じゅうで民主主義がま
   すます危険な状態に陥っていることを指摘してきた。長いあいだ民主主義
   が当然のように存在してきた場所でさえも、いまや例外ではない。たとえ
   ば、ハンガリー、トルコ、ポーランドでポピュリスト政権が民主主義を攻
   撃した。オーストリア、フランス、ドイツ、オランダ、そしてヨーロッパ
   各国で、過激派勢力が選挙で劇的に票を伸ばした。そして2016年には
   アメリカの歴史ではじめて、公職に就いた経験がなく、憲法によって保障
   された権利を明らかに軽視し、はっきりとした独裁主義的傾向のある男が
   大統領に選ばれた。これらのすべてのことは何を意味するのか?世界でも
   っとも古く、もっとも成功した民主主義のひとつが衰亡しようとしている
   のだろうか?私たちはいま、その崩壊のさなかにいるのだろうか?」(
   『民主主義の死に方』(2018年))
 この後の本文では、各国の政治史で実際に民主主義が崩壊したケースや、逆に
悪い展開を阻止しえたケースなどが紹介されていくのだが、何よりも印象深いの
は、1778年の建国以来、何度も二極化の強まりと緩和を繰り返してきたとい
うアメリカ政治史の一側面の叙述であり、その原因の説明である。
 著者たちによれば、アメリカの民主主義の繁栄を支えたのは、不文律として確
立されたいくつかの規範の存在であり、それが柔らかなガードレールとなってエ
スカレートしやすい党派政治の暴走を抑えてきたことである。これらに支えられ
てこそ、権力分立を特徴とするアメリカ憲法の下での現実政治が円滑に営まれて
いたと言うのである。
 各種の不文律が意図していたのは、アメリカの政治家たちに相互的寛容と組織
的自制という2つの規範の実践を促すことだった。それらが暗黙の掟となって実
践されている間は、党派間の対立も緩和されて、二大政党制による安定した政治・
行政の運営が続いていた。逆に何らかの新たな要因が働いて党派間の抗争が再燃
すると、これらの規範は公然と破られ、それがまた対立を激化させるという悪循
環が生み出された。民主主義の健全な運営にとって「寛容」と「自制」という2
つの規範の遵守がいかに大切かということを、二人は繰り返し強調している。
 トランプ政権の登場を招いた二党の対立激化のそもそもの始まりは、1978年の
下院選挙に立候補したニュート・ギングリッチという共和党員の過激なレトリッ
クを使った言動にあったと言う。彼は選挙運動で懇談した大学生の党員たちに向
かって「これは権力のための戦争だ。政治指導者にとっていちばん大切な目標は、
過半数の議席を勝ち取ることだ。」と語り、モラルなき戦いへの参加を促した。
また、テレビの政治専門チャンネルを利用して、「民主党議員たちは、われわれ
の国を破壊しようとしている」と警鐘を慣らし、保守派の票の掘り起こしに努め
た。こうした作戦で当選したギングリッチは、しだいに熱狂的な支持者を集める
ようになり、彼らと共に共和党を変える運動に取り組んでいく。
二人はギングリッチが共和党に与えた影響を次のように書いている。
  「 ギングリッチは共和党執行部への階段を駆け上り、1989年に下院少数
   党院内総務に、1995年には下院議長に就任した。それでも、彼は過激な
   レトリックをやめることを拒んだ。ギングリッチは党を遠ざけるのでは
   なく、自分のほうに引き寄せた。議長になるころまでに、彼は新しい世
   代の共和党議員のお手本として持て囃されるようになっていた。そのよ
   うな議員の多くは、共和党が圧倒的勝利を収めて40年ぶりに下院第一党
   になった1994年の選挙の当選者だった。同じように、上院も〝ギングリ
   ッチ・チルドレン”の登場によって変わろうとしていた。チルドレンたち
   のイデオロギー、妥協への反発、審議を平気で妨害しようとする態度は、
   議会の伝統的な習俗の終焉を早めるものだった。
    当時気がついていた人はほとんどいなかったものの、ギングリッチと
   その仲間たちは新たな二極化の波の先端にいた。その根底にあったのは、
   とくに共和党支持者のあいだに広がっていた社会への不満だった。ギン
   グリッチがこの二極化を生み出したわけではなかったが、彼は一般大衆
   の感情の高まりを巧みに利用した最初の共和党員のひとりだった。彼の
   強いリーダーシップによって、『戦争としての政治』が共和党の主たる
   戦略となる流れができあがっていった。」
 こうした共和党の戦略は当時のクリントン政権からオバマ政権に至るまで揺
るぎなく維持され、トランプ登場の土壌を培っていった。民主党の側もこれに
対抗して、自らが野党になったブッシュ政権以降は「自制心」なき強硬手段を
とるようになっていく。双方からの「戦争としての政治」化が進むことによっ
て、アメリカ合衆国憲法が意図したはずの権力分立システムによる民主政治の
内実は失われていった。
 共和党と民主党の対立は長い歴史を持っているが、現代政治における対立の
構図は60年代に生じたものである。その最初の要因は、60年代半ばの公民権
運動をきっかけとして始まった「党派の再編成」だった。それ以前の民主党、
共和党は、各自の内部にさまざまな思想の支持者を含んでいたため、党による
二極化は今よりも穏やかだった。長年の懸案事項である人種の問題についても、
明確に対立していたわけではなかった。ところが、公民権法の制定をめぐって、
民主党が「推進」、共和党が「反対」の態度をとったことにより、両党は人種
問題によって明確に色分けされることになった。それによって、20世紀の終わ
りまでに党内の思想的な純化も進み、地域的な棲み分けも鮮明になっていった
のである。
 「 南部の黒人たちにくわえ、公民権運動を支持してきた北部のリベラル派
  の共和党支持者たちはこぞって民主党支持にまわった。南部が共和党色に
  染まっていくなか、北東部はみるみる民主党色に染まっていった。
   1965年からの再編によって、有権者をイデオロギー的に分類するという
  プロセスも始まった。およそ100年ぶりに党派とイデオロギーがひとつに
  まとまり、共和党は主として保守的に、民主党は圧倒的にリベラルに傾い
  ていった。」
 この記述から現代アメリカの政党政治の構図を決めた要因として人種問題が
きわめて大きかったことがわかるが、さらに60年代以降の移民の波もこうした
変化を促進するものとなった。それにより、支持者の人種別割合も大きく変わ
り、民主党は少数民族のための党となる一方、共和党はほぼ白人のためだけの
党となっていったのである。また、イデオロギーとの関連では、80年代以降に、
福音派キリスト教徒が共和党に結集する一方、民主党支持者の宗教離れという
変化が進んだ。
 著者たちはこの項を次のようにまとめている。
  「 言い換えれば、二大政党はいまでは『人種』と『宗教』によって区別
   されているということだ。深刻な二極化の原因となるこのふたつの問題
   は、税金や政府支出などといった伝統的な政策課題に比べて、より不寛
   容と敵意を生み出しやすいものだった。」
 このような対立構造を抱えた二大政党による政治が数十年にわたって続いた
結果、有権者たちの間の分断状況は驚くほど深いものになっていった。1960年
に行われた政治学者の調査結果によると、「自分の子供が別の政党の支持者と
結婚したらどんな気持ちになりますか?」という質問に対して「不満」と答え
たのは、民主党支持者の4%、共和党支持者の5%だったと言う。ところが20
10年の調査結果では、「幾分あるいは非常に不満」と答えたのが民主党支持者
で33%、共和党支持者では実に49%にも上った。また、ある財団の2016年の
調査によると、共和党支持者の49%、民主党支持者の55%がもう一方の政党を
「怖れている」と答えたと言う。まるで、お互いに敵味方のような気持ちを持
つ中で政治が行われるようになってしまっていることが分かる。
 分断の政治がその後どのようなものになり、どのように民主的慣行を崩して
いったかを詳しく論じた後で、著者たちは二極化問題に関する自らの見解を次
のようにまとめている。
  「 二極化はときに民主主義的な規範を破壊する。社会経済的、人種的、
   宗教的なちがいによって極端な党派心が生まれたとき、政治の陣営に
   よって社会は分断される。両者の価値観がたんに異なるのではなく、
   互いに排他的になると、社会の寛容さを保つことはますます難しくな
   る。・・・相互的寛容が弱まるにつれて政治家は自制心を失い、どん
   な手を使ってでも勝ちたいという欲求を抱くようになる。ときにこれ
   が、民主主義のルールを歯牙にもかけない反体制勢力が台頭するきっ
   かけとなる。そのような事態になったとき、民主主義はトラブルに陥
   る。」
 確かに政党政治がこのような性質のものになることは、自由民主主義の政治
システムの根幹を腐食させるものであり、リベラリストたちが危機的事態と見
なしたのは当然のことであると思う。2010年代には、このような意味を持
つ「分断の政治」化が多くの国々で進行していたのである。そういう展開を思
えば、この著者たちの衰退論には見るべきものがあった。
 しかしながら、分断の主な原因を「人種や宗教に関する価値観の違い」に帰
している点には限界も感じられる。そういう領域での対立が強くない国々でも
分断は激化していったからである。「分断の政治」のより根本的で共通の原因
は、むしろ90年代までの民主主義の変容の過程とその後に加わった要因の中
に求めるべきであると考える。
 その視点から注目されるのは、米の二党の対立が始まり、激しくなっていっ
たのが、70年代から90年代にかけての「変容期」であり、新自由主義政策
が導入され強化されていった時代だったことである。ニクソン・レーガン・ブ
ッシュ時代の共和党の変質、クリントン政権から始まる民主党の変質は、対立
する党への攻撃的な体質への変化を含むものでもあった。そして、新自由主義
時代の政治のこうした側面は、程度の差はあっても、他の国々でも見られたも
のである。アメリカの場合もこの共通した要因が大きく影響したと見るべきで
はないだろうか。
 その後加わった要因は地域によって異なる。ヨーロッパの国々では、200
0年代からの移民・難民の急増が最も大きい要因となった。日本では右傾化の
問題が大きく、アメリカでは格差社会化の進行が大きく作用している。これら
の諸問題も元をたどれば、変容期の中に起点を見出すことができる。したがっ
て、「分断の政治」化の問題も1970年代に始まる政治・経済の大きな変動
の流れの中に位置づけ、見ていくべきだと考える。

2.「寡頭制化」重視型
 こちらは、先進国の「民主主義」が現実にはすでに著しく寡頭制的なものに
転化しており、かろうじて民主政の外観を保っているにすぎないと見るもので
ある。論者たちは、その背景に世界規模の資本主義の変容とそれにともなう格
差の拡大があると見ている。こうした経済・社会の変化は、有権者のあり方や
政党のあり方も変えて、市民と各国政治の距離をますます大きなものにしてい
るととらえるのである。典型的な著作としては、イギリスの経済社会学者コリ
ン・クラウチによる『ポスト・デモクラシー』( 2003年)がある。
 クラウチは、自由民主主義の歴史を民主主義の実現度という視点から3つの
時期に分けて捉えている。最初に寡頭制的な「前デモクラシー期」があり、次
に民主制が実質的なものとなった「デモクラシー期」、最後に民主主義の衰退
が限界を超えた「ポスト・デモクラシー期」という3つである。「ポスト・デ
モクラシー」期には、民主主義の全般的な衰退が見られるようになり、その中
で政治権力の偏在化が進んでいく。著者は、すでにポスト・デモクラシー期に
入った当時の状況を以下のように要約している。
  「 今日、政府は企業の重役や一流事業家たちの知識と専門技能への依存
   度を深めており、政党も企業の資金に頼っていることから、政治と経済
   の双方にわたる新たな支配階級が着実に確立されようとしている。社会
   の不平等が拡大するのに伴い、彼らは持ち前の権力と富をふくらませて
   いるだけではない。真の支配階級のしるしである特権的な政治上の役割
   まで手に入れた。これこそ、21世紀初頭のデモクラシーが直面する主要
   な危機である。」(『ポスト・デモクラシー』2003年)
 こうした民主制の変質が生じたのは、「デモクラシー期」の間に発生してそ
の後も強まっていった諸要因が影響したためであるとされる。クラウチは、主
な要因として階級状況の変化と中道左派政党の変質、グローバル経済の下での
企業の影響力の増大をあげ、以下のように説明している。
一つの要因は「労働者階級の衰退」である。19世紀末から20世紀の半ばま
で経済的にも政治的にも大きな存在となっていた労働者階級は、1960年代
半ばからはグローバル経済の変容にともない、先進諸国の中で縮小し始めた。
80年代には製造業の破綻でリストラが相次ぎ、90年代の新たな技術革新も
これに追い打ちをかけるものとなった。
一方、他の社会カテゴリーに属する人々も、かつての労働者階級のようなまと
まりと影響力を持つことはなかった。政治的には「おおむね受動的」であり、
「自主性を欠く」存在であった。それだけに「人を操作する政治が多用される」
対象としては、大きな意味を持った。ポスト・デモクラシー化を促進する役割
を果たしたわけである。
 こうした階級状況を反映して、政党のあり方も変わっていった。とくに各国
の中道左派政党には、この状況に対応して党の政策を大幅に変えていく傾向が
見られた。例えばイギリスの労働党は80年代にこの方向へ舵を切り、それまで
の支持基盤を離れて万人のための党となることを選んだ。その結果、90年代
には18年ぶりに政権への復帰を果たしたのであるが、政策面では前保守党政
権の新自由主義的政策との継続性が強まっていった。クラウチは、ヨーロッパ
諸国の中道左派政党の事例もあげながら、どの場合も「新たな党の社会的アイ
デンティティの発展や動員ができなかった」と書いている。混迷が深まってい
ったのである。
 上記のような変化にともなって、こうした政党の内部構造も変わっていった。
3章で引用した部分で説明されているように、執行部・顧問・ロビイストたち
が専門家を起用しつつトップダウン方式で運営を行うようになり、大衆政党の
要素は消滅していったのである。
 労働者や中間諸階層が影響力を弱める一方で、グローバル企業の影響力はき
わめて大きいものになっていった。クラウチは、上記の理由の他にグローバル
企業を国内に引き止めたり、誘致するためにも彼らの利害に合った政策を選ば
ざるをえないという、グローバル化が及ぼす影響を挙げている。企業側の生産
コストに影響する主なものとして、労働基準、課税レベル、公共サービスの質
などがあるが、これらに関してもいわゆる「底辺への競争」(註:他国の引き
下げに負けない引き下げ)をまねくことになる。このような点からも、グロー
バル化の進む中での政治は、企業集団の意向に逆らえないものになっているわ
けである。
 クラウチは上記のような議論を展開して「私たちはポスト・デモクラシー期
に突入しつつある。」と語った。その見方は、以下のように要約されている。
 「 私の主張の眼目は以下のとおりである。民主主義の形態はいまも完全に
  有効であり、今日では強化されている面もあるが、政治も政府も、まるで
  民主主義の以前の時代のように特権エリートの管理下へと退歩しつつある
  こと。そして、そのプロセスの重大な帰結として、平等主義の大義の無力
  さが増していること。(中略)民主主義の病弊を単にマスメディアの誤り
  とスピンドクター(註:政治家や党派の情報操作アドバイザー)の台頭と
  してとらえるのは、はるかに深刻な進行中のプロセスを見落とすことにほ
  かならない。」
 クラウチの衰退論は先進国のすべてに関するものであるが、政党の変質につ
いては、あげている例などから全体的にヨーロッパ諸国の状況にもとづいたも
のという印象を生んでいる。なので、アメリカの状況はどうなのかについても
言及しておきたいと思う。これについては、ロバート・B・ライシュの200
0年代からの一連の著作によって見ることができる。アメリカ民主主義の変容
に関する彼の主張の要点は、以下のようなものである。
 「 米国人は民主主義に対する信頼を失いつつあり、それは他の民主主義国
  でも同様である。(中略)35年前にはほとんどの米国人は、米国の民主
  的な政府は、全国民のために働いていると考えていた。ところがその後数
  十年の間に、そうした信頼は着実に衰えていき、いまやほとんどの人が、
  政府はいくつかの巨大利権によって運営されていると思っている。他の民
  主主義国で行われた調査でも、政府に対する信用と信頼が同じように衰退
  していることがわかっている。いったい何が起きたのだろうか。
   米国の場合、考えられる信頼低下の原因は、政治におけるカネの役割の
  拡大、とくに大企業からの政治資金の役割が拡大したことである。他の国
  々ではまだそれほど顕著にはみられないものの、しだいにその傾向が強く
  なりつつある。これから議論していくように、カネは、消費者や投資家を
  めぐる企業間の競争を激化させて経済的勝利をもたらした超資本主義の副
  産物である。企業が公共政策を通じて競争上の優位を得ようとしたため、
  この経済の世界での競争が政治の世界にも飛び火したのだ。その結果、市
  民の懸念に応えるべき民主主義の可能性が減退してしまったのである。」
  (『暴走する資本主義』2007年)
 クラウチは『ポスト・デモクラシー』の冒頭で「1990年代の後半には、
先進国の大半でつぎのようなことが明らかになりつつあった。どんな政党が権
力に就こうと、国の政策には富める者の利益になるよう一定の圧力が継続的に
かけられる。規制なき資本主義経済からの保護を必要とする人々ではなく、む
しろ恩恵を受ける人々の利益が優先されるのである。」と書いているが、ライ
シュの記述から、アメリカにおいてもそれが顕著な傾向となっていたことがわ
かる。
 寡頭制化という側面を重視したクラウチのデモクラシー衰退論は、前章で述
べたような変容期の現象と主な原因を的確に捉えたものと評価できる。そこで
は、背景となったグローバル経済との関連も明確に説明されており、説得力も
ある。しかし、2003年に出版されたということで、その後に起きた衰退の
進行や危機の諸相を考えると、これだけでは十分とは言えない状況になってい
る。そういう意味で、衰退へ向かう基本的な流れを解明した著作として位置づ
けておきたいと思う。

3.「操作政治化」問題重視型
 前項で見たように「先進国の民主主義が現実にはすでに寡頭制的なものに転
化しており、かろうじて民主制の外観を保っているにすぎない」のであれば、
そこには必然的に有権者や世論を操作する政治がはびこるようになる。操作す
るのは統治エリートとなったインテリであり、操作されるのは擬制的に主権者
とされた大衆である。両者のこうした関係で営まれる政治は「操作の民主制」
と特徴づけられる。衰退のこの側面を重視した典型的な著作としては、フラン
スの歴史社会学者エマニュエル・トッドの『デモクラシー以後』(2008年)
がある。
 トッドは、フランス民主主義の70年代からの変容を歴史社会学的に分析する
中で民主制の衰退の要因を探っていくのであるが、その結果得られた主な要因
はすべての先進国に当てはまるものだと語っている。
 トッドの分析は、第二次大戦が終わり、新たな変容が始まるまでの状況から
始まっている。その時点で、フランスの政治は共産主義、社会民主主義、ド・
ゴール主義、カトリック気質の穏健右派という4つの勢力によって構造化されて
おり、それぞれが集団的信仰としてまとまっていたと言う。しかし、60年代後
半からの高等教育における変化、社会の変化は、人々の意識を変え、政治構造
の変化も生み出していくことになる。政治の領域で起きた主要な変化について
は、以下のように書かれている。
  ① 政治的・イデオロギー勢力の漸進的解体
   上記4つの中で最も早く解体を始めたのは、カトリックの勢力である。60
   年代初頭から80年代にかけて宗教実践の衰退という現象が急速に進み、政
   治的には70年代末には自立的勢力としての影響力を失った。続いて80年代
   の初めに共産党も力を失っていくのであるが、その背景には諸イデオロギ
   ーの衰退という現象の進行があった。トッドは、1968年の5月革命が90年
   代まで続くこの過程の出発点だったと言う。社会民主主義およびド・ゴー
   ル主義は、各政党の得票数という面ではこれらよりも緩慢な変化を見せた
   のであるが、イデオロギーでまとまったピラミッド状の組織と支持基盤の
   解体という面から見れば、同様な変化を免れなかった。集団的信仰は力を
   弱め、党と支持者の間の緊密な関係は消滅していったのである。
  ② 有権者のアトム化、階層のミルフィーユ化
   上記の変化は、有権者のあり方を大きく変えていくことになった。各集団
   は解体、分散して、個人が自分の判断で動くという意味でのアトム化が進
   行する。無党派層が肥大するわけだから、選挙結果が左から右、右から左
   へと揺れ動く「ワイパー効果」という現象が起こるようになった。価値観
   レベルでは個人主義的傾向が強まり、個々人がナルシスト的に自己の中に
   閉じこもることがあらゆる集団で起きていく。
    社会全体は、階層ごとに、さらには職業ごとに細分化されていき、「ま
   るでミルフィーユのようにいくつもの薄い層が重なる様相」となる。階層
   と階層の間のコミュニケーションは希薄になり、職業のみが自己同一化の
   対象となっていく。こういう面からも、階級意識は成り立ちにくくなるわ
   けである。
  ③ 右派ポピュリズムの登場
   これは、80年代のことである。フランスでは、国民戦線という名の政党が
   1984年のヨーロッパ議会選挙のときに現れ、2年後の国民議会選挙で一勢
   力として確立された。移民の増加が追い風となり、共産党やド・ゴール主
   義の政党が強かった地域で議席を増やしていった。
    この党はしだいに勢力を増し、2002年の大統領選では党首のル・ペ
   ンが第2回投票に残るまでになった。フランス政治にもポピュリスト勢力が
   影響を与えるようになっていったのである。
  ④ 伝統的政党の腐食化
   90年代には伝統的政党の凋落または変質が進んだ。まず、共産党とカトリ
   ック勢力が弱体化して、社会党とド・ゴール派政党の二党が対立する状況
   となる。左の勢力の代表は社会党となったわけだが、この党はイギリス労
   働党と同じく新自由主義への転向を果たし、金融資本主義の受容の態度を
   露わにしていく。従来からの支持者の期待を裏切り、左派のイメージを失
   っていったのである。
  ⑤ 自由貿易の破壊的作用
   90年代に進んだ自由貿易化への流れは、先進国の社会を大きく変える作用
   を持った。生産のグローバル化によって、労働者の賃金は第三世界の労働
   者の低賃金との競合関係に入ることになる。これを梃子として、さまざま
   な負の現象が起きており、民主政治の変容の大きな促進要因ともなってい
   る。
    2000年代に入って明らかになってきたことは、大衆の広範な部分が
   自由貿易に反対しているのに対して、富裕層はこれを支持し、政治・経済
   界のエリート層も賛成の態度を取っていることである。このため、大衆の
   側におけるエリート不信、政治不信はかつてなく強まっている。その表れ
   は、2005年のヨーロッパ憲法条約が国民投票で否決されたことだった。
   にもかかわらず、この民意に反して、3年後のリスボン条約は国民議会と上
   院で批准されてしまった。このことにより、「有権者は、自分たちの投票
   は今後は停止請求権としての効力しか持たなくなったことを知った」とト
   ッドは書いている。
  ⑥ 民主制から寡頭制へ
   トッドは、クラウチと同様に、先進国の民主主義は衰退に向かっていると
   見ている。第3章「民主制から寡頭制へ」は、以下の文章で始まっている。
  「 この第三・千年紀の初頭にあって、民主制は先進国で元気がない。イン
   グランドならびにアメリカ合衆国とともに、近代的な代議制民主主義が考
   案された3つの国の一つであるフランスは、この点で最も具合の悪い国の
   一つであるのは確実である。その住民は、その統治者たちに構造的に不満
   を抱いているように見える。選挙での棄権は増大し、実際の投票は、ます
   ます制御不可能になり、選挙ごとにますます予想を越えた結果を産みだす
   ようになっている。とはいえ、右へ右へと横滑りする傾向は見て取れるの
   である。1995年のジャック・シラクの最初の当選から、2002年の
   ジャン・マリ・ルペンとの決選投票の結果という奇妙奇天烈な彼の再選へ、
   次いで2007年のニコラ・サルコジの大統領就任へ、という具合に。」
    選挙においてはポピュリズム的要素が強まっていることが観察される一
   方、統治においては寡頭制による実践がなされていくという実態がある。
   トッドはそれを「民衆とエリート層の間の、民主制と寡頭制の間の緊張」
   と表現している。両者の間にはコミュニケーション、意思の疎通がなくな
   り、不信感のみが強まっていく関係になっている。
  ⑦ 世論の民主制から操作の民主制へ
 こうした関係が固定化される中で、政治家たちは有権者を操作することによっ
て権力を獲得したり、維持したりすることをめざすようになる。この面が肥大し
た政治をトッドは、「操作の民主制」と呼び、以下のように説明している。
  「 いまや有権者は、政治家が仕える存在ではなく、政治家に操作される存
   在なのだ。視聴覚メディアを統制し、ジャーナリストをたらし込み、倦ま
   ず弛まず世論調査を分析する。こういうことが一つの職業的技術となり、
   それに長けた人間や、その下働きをする人間が輩出するような事態になっ
   てしまったのは、民主制は、時としてそう呼ばれるように、これまでは世
   論の民主制であったのが、いまや操作の民主制となってしまったからなの
   である。 」
 以上のような諸変化の累積によって、フランス民主政治の現在の姿があるとト
ッドは見ている。先進国の民主制を衰退していると見ている点、「政党の変質」
や「グローバル化の影響」、「有権者の意識の変化」等を主な要因としている点
など、クラウチのポスト・デモクラシー論と共通している点が多い。
 とくに注目したのは、80年代の右翼ポピュリストの浮上を重視している点と、
2000年代に起きた衰退現象として、大衆のエリート不信の高まりを挙げてい
る点である。この2つは、ともにエスタブリッシュメント勢力の大衆からの乖離
という共通の原因から生じたものである。であれば、新自由主義の席巻が根本の
原因になっていると見ることができる。それにより、中道左派政党も保守政党も
大差のない自由貿易支持政策をとっていったからである。
 ポピュリズム勢力の伸長とエリート不信の高まりは、2010年代以降、特に
目立ってくる衰退現象であり、「操作の政治」化もデモクラシー危機の核心とな
るような現象である。そういう意味でも、トッドの衰退論は問題を考えていく上
での有意義な論考になっていると思われる。

4.強権政治化問題重視型
 日本においても、2000年代に入り、ポスト・デモクラシー化が進んできた
ことは確かである。とくに2012年に成立した第2次安倍政権の下では行政も
含めた民主政治総体の劣化が誰の目にも明らかとなり、発生した数々の問題を通
じて多くの人がこのことに危機感を抱くようになっていった。そうした中、政治
学者の山口二郎は2019年秋に『民主主義は終わるのかー瀬戸際に立つ日本』
(岩波新書)を出して、日本の民主主義の行方に警鐘を鳴らした。
 山口の問題意識は、編集者がつけたと思われる以下の要約文に圧縮して表現
されている。
  「 政府与党の権力が強大化し、政権の暴走が続いている。政治家や官僚
   は劣化し、従来の政治の常識が次々と覆されている。対する野党の力は
   弱い。国会も役割を見失ったままだ。市民社会では自由や多様性への抑
   圧も強まり、市民には政治からの逃避現象が見られる。内側から崩れゆ
   く日本の民主主義をいかにして立て直すのか。」
 「権力が強大化し、」から「次々と覆されている。」までの2つの文に日本
政治の「強権政治化」の下で起きた異常な事態と著者自身の危機意識が要約し
て表現されているので、以下では特にこれに対応する部分を見ていくことにす
る。
  ① 政府与党の権力の強大化はどうして起きたのか
   山口は、80年代までの日本的な抑制均衡システムの行き詰まりと、80年
   代末からの困難な政策課題の山積が変化の出発点にあったと見ている。
   それらの課題を解決し、前進するためには「決められる政治」を可能と
   する政治改革を実現しなければならない。そう考えた政治家たちの手に
   よって、90年代前半には政治改革、後半には行政改革が実現したのであ
   るが、これらが2000年代に入ると、首相への権力集中や官僚・政治家の
   劣化という負の影響をもたらし始めた。特に第2次安倍政権下では、②
   以下のような諸問題が次々に顕在化したのである。
    政治改革では、「ぬるま湯」のような中選挙区制に変えて当選者が一
   人に限られる小選挙区制と比例代表制を組み合わせた衆議院選挙制度が
   採用された。当選するためには党公認の候補となることが必須要件とな
   り、党本部の意向には逆らえなくなる変化が生まれた。
    橋本政権による行政改革はさらに首相官邸と内閣の権力を強大化させ
   る作用を持った。首相官邸および内閣の機能強化の仕組みが付け加えら
   れると同時に、「政治主導」の名のもとに官僚機構に対しても強いコン
   トロール力が持てるようになり、これらの面からも権力の集中が実現さ
   れていった。
  ② 劣化した指導者の下での日本政治の変化
   安倍政権下では、首相の行動のみならず、首相官邸や内閣の動き、大臣
   たちの質、国会のあり方、各省庁の官僚たちの行動など、政治・行政の
   前面にわたって深刻な病弊が見られた。山口は、以下の点をとりあげて、
   なぜそうなったのかを論じている。
   1)権力の私物化と家産制国家
     そこでは、近代的な法の支配という原理が無視される。前近代にお
    いてそうであったように、権力者の私有物と国家の公共物の区別もな
    くなる。官僚は法に従うのではなく、権力者の意のままに動く従僕と
    なる。家産制国家への逆行が始まったのである。
   2)不条理劇と化す国会
     国会での討論は、政権側の不誠実な答弁により、まったく無意味な
    ものと化していった。その程度は「不条理劇」さながらの常軌を逸し
    たものになっていたのである。これにより、議会の持つ重要な機能は
    低下し、しばしば麻痺状態に陥っているのが見られた。
   3)民主主義の基礎をなす規範の無視
     政党政治の「柔らかなガードレール」としての「相互的寛容」と
    「組織的自制」の衰滅が進んだ。安倍首相は野党議員に対して露骨に
    敵対的な姿勢を示し、内閣法制局の人事に介入して憲法の解釈変更を
    可能にするといった確立された慣習からの逸脱も繰り返していった。
    民主主義の基礎をこわし、分断を進める道を歩んだのである。
 山口は、以上のような政治領域の変化と並行して進んだ社会・経済領域の大
きな変化も、相互に関連あるものとしてとらえている。中でも、経済面ではグ
ローバル化の下での新自由主義的経済政策の推進を、社会面では近年強まって
きた個人の自由、表現の自由に対する圧迫をともに民主主義の土台を掘り崩す
ものとして論じている。
 確かに、安倍政権下で起きたことは、デモクラシーの衰退現象の典型的な事
例であったと言える。ここでも、新自由主義政策推進との関係、その下での
「分断の政治」化の進行が指摘されている。さらに民主政治の劣化は権力の私
物化にまで至るものであり、その程度および危険度が高まっていることもわか
る。また、①の権力の強大化の説明部分では、戦後コンセンサスの政治からの
転換、そのための政治改革が出発点になっているということで、福祉国家下の
政治とは基本的に異質な政治に変わっていく流れの中で生じた現象であること
もわかるのである。「デモクラシー期」からの変容がその先に危険度の高い衰
退現象を生み出していくことを示す、一つの例であると思う。

5.ポピュリズム問題重視型
 衰退現象の中でもう1つ大きな問題となったのが、先進国で右派ポピュリス
トが政権を取ったり、選挙で大きく躍進したりする事例が増えてきたことであ
る。この現象が民主主義の土台そのものを揺るがすような破壊的影響を持つも
のであることは、米国トランプ政権の4年間で実証された。さらに、複数の国
々で起きたこの現象には共通の要因があることから、ポスト・デモクラシーの
一側面として見なすべきであることも明らかになってきている。ということで、
このタイプの衰退論も重要だと思うのであるが、イギリスのジャーナリストで
あるスティーブ・リチャーズの書いた『さまよう民主主義』(2018年)を
その一例として紹介してみたい。
 著者は、本の序文で次のように自らの問題意識を説明している。
  「 アウトサイダーのタイプはさまざまだが、政治的なスローガンや主張
   があいまいな時代にあって、彼らはとにかくわかりやすいという特徴を
   持つ。右派出身も左派出身もいるものの、これまでメインストリームと
   されてきた政治の”外“から現れた点は共通してる。・・そうしたアウト
   サイダーたちが最近になって、揺るぎないように見えた西欧のリベラル
   な民主主義を揺るがしている。その理由を探るのがこの本の目的だ。」
 理由の中で著者が最も重視しているのは、メインストリームすなわち主要政
党の政治家たちの動向である。それらが一貫して大衆の期待に背くものであり、
しばしば不信感の累積を生んできたことから、アウトサイダーすなわちポピュ
リストたちが浮上する隙間が生じたと著者は説明する。
 メインストリームの動向というのは、まず90年代に起きた左右の接近であ
る。これは、中道左派政党の新自由主義政策への転換によって生じたものであ
るが、ブレアーは労働党大会の演説の中でこの方針の適切さを次のような言葉
で説明した。
  「 政府の力を使ってグローバル化をせきとめ、荒波から自分たちを守ろ
   うという誘惑がある。規制で労働力を、補助金で企業を、関税で業界を
   守ろうと言う考え。そうした考え方は通用しない。
    なぜなら、グローバル経済をせき止めていたダムは何年か前に決壊し
   た。競争は止められない。できるのは拍車をかけることだけだ。」
   (『さまよう民主主義』)
 こうした考えの下、中道左派政権は保守派政権の時代とほとんど変わらない
ような政策を実施していく。この類似性は、大きな節目となった2008年の
リーマン・ショックの後も続いた。
 「 左派メインストリームと右派メインストリームの真の違いが見過ごされ
  る一方で、両者の似通い方の度合いは問題視された。左右の接近は金融危
  機以前から起こっていたが、危機後も流れは止まらなかった。目の前の出
  来事に絶望し、危機の余波に恐れをなす有権者にとって、中道右派と中道
  左派の言葉はほとんど同じに思えた。悪いのは銀行だが、空前の規模の支
  出削減という罰を受けるのは国民だと。」
 深刻な金融危機の後は、大規模な支出削減という政策が政界のコンセンサス
となり、中道左派政権もこれを実行していった。有権者大衆の目から見れば、
「危機の原因を作った連中を変わらず懇意にし、他の人たちに尻拭いをさせよ
うというのか」としか思えない事態が進行していったのである。「置き去りに
された」と感じていた人々は、やがてアウトサイダーに救いを求めて、投票行
動を変えていくようになる。
 さらに、2010年代半ばには中東からの難民の問題が深刻化し、それへの
対応が有権者たちのメインストリーム離れを決定的なものにしていった。
  「 少なくとも90年代には、ブレアーのようなどっちつかずの姿勢を採
   ることで、中道左派は大勝できた。しかし、難民の問題にも同じように
   日和見を決め込んだことで、彼らは失いかけていた支持をさらに減らし
   た。(中略)ご都合主義を採るという痛恨の過ちを犯したことで、中道
   左派は時代の変化をわかりやすく説明するための武器を失った。人々の
   心を動かし、国をリードし、物事に筋道をつけるための言葉を見つける
   ことさえ、できなくなった。」
 著者は、メインストリームが人々の信頼を失っていったのは、上記のような
選択の誤りのほかに、彼らを取り巻く構造的な制約もあったと述べている。ヨ
ーロッパの場合は連立政権を組まざるをえないケースも多く、これは強力な制
約条件になった。アメリカの場合は、憲法で定められた権力分立の均衡システ
ムが強い制約となる。オバマ政権が望んだとおりの政策を実現できなかったの
は、この条件下におかれたためだった。
 これらのことが重なり合い、欧米各国において大衆とメインストリーム政治
家たちの距離はますます遠くなっていった。これにより、ポピュリストが浮上
するための隙間が拡大していったのである。  
 リチャーズの以上のような衰退論は、21世紀の先進国におけるポピュリス
ト伸長の原因を良く説明していると思う。そして、その説明は90年代までに
生じた変容と結びつけて理解するとき、より明瞭になると考える。クラウチが
重視した寡頭制化や階級状況の変化、トッドが詳しく論じた政党の変化、それ
による「操作の政治」化は、リチャーズの本で述べられた諸現象の前提条件に
なっているからである。全体として、変容から衰退に向かう一連の流れは、ど
の側面においても止めることが難しく、元には戻せないものになっていたと言
えるだろう。

6.まとめの考察
 前章で見てきた変容の過程と、本章で紹介した各衰退論の知見を総合すると、
自由民主主義政体の終末に向かう流れの全容が浮かび上がる。2020年代の
現時点でふり返れば、これまでの流れは以下のようなものであった。
1)デモクラシーの変容から衰退へ
 国によって多少のずれはあるものの、60年代後半から70年代初めに共通
して現代的変容のプロセスが始まったと考える。欧・米・日に関しては、60
年代後半に既成左翼と決別した学生運動の興隆、68年の世界同時的叛乱があ
った。同時期に公害反対運動を始めとする各種の社会運動、市民運動も盛んに
なっていった。トッドが言うように、このことは既成の左翼政党がイデオロギ
ー勢力としては衰退の過程に入ったことを意味していた。同じころ、アメリカ
では公民権法への対応を巡って、民主党・共和党の対照的変化と、それによる
二極化が始まっている。
 しかし、何よりも大きかったのは、70年代に始まるグローバル資本主義の
変動の影響だった。それは、変容の初期段階のみならず、全過程にわたり、ま
た全地域において作用し続けた。国ごとに民主制の具体的な形や政治史の展開
が異なるにもかかわらず、どの国においても同時期に似たような変容や共通の
衰退現象が現れたのは、そのためである。
 まず現れたのは、先進国経済のポスト工業化にともなって、福祉国家体制を
支えていた政党の性格変化が始まったことである。その中で、長く続いていた
大衆政党の性格が失われていったことは、政体の民主主義的要素を消滅させた
という点で大きな意味を持つものであり、その後の展開にも影響をおよぼしつ
づけることになった。
 これに続いて、グローバル経済の変動・金融資本主義化に合わせたサッチャ
ー・レーガンの保守革命が始まった。これは、福祉国家体制の終焉と新自由主
義政策の全面的導入を告げるものであり、政治のあり方はもとより、経済と社
会のあり方も大きく変えていくようになった。その中心にあったのは、格差社
会化の始まりと自由競争の促進である。新自由主義への転換はその他の先進国
でも順次行われ、自由民主主義政体の変容の最大の要因となっていった。
 90年代には、冷戦構造の終焉とグローバル金融資本主義の支配力増大が影
響する中で、政体の変容が各国に広がり、衰退の現象も見られ始めた。先進諸
国では、中道左派政党が左派色を薄め、新自由主義政策に転換していったこと
が大きく作用した。これにともない、いずれの政党も経済界との結びつきが強
くなり、寡頭制の構造がますます強まるとともに、大衆に対しては「操作の政
治」を行うようになったのである。このため、政治エリートと大衆の距離は遠
いものとなり、政治不信と無関心層の増大も見られるようになった。民主制の
基盤も掘り崩されていったのである。
 2000年代、2010年代はその延長線上で衰退が進行し、分断の政治、
強権政治、ポピュリズムによる混乱へと民主主義の危機の深化が見られた時代
である。欧米では、グローバル化の影響が持続している中で移民の増大、イス
ラム過激派によるテロの頻発が分断の政治を促進する要因となった。ヨーロッ
パでは、EU離脱問題や地域の分離独立問題なども浮上し、右派ポピュリスト
勢力の伸長も見られるようになった。
 以下では、これまでの変容・衰退の過程に継続的に作用し続けた主な諸要因
を取り上げ、より詳しく見ていきたいと思う。
2)政党の変化という要因
 以上の過程と、それ以前の自由民主主義の歴史を合わせ考えるとき、政党と
いうものが民主主義の盛衰にもたらす影響の大きさが明らかになる。自由民主
主義は、第二次大戦後の「戦後和解体制」において黄金期を迎えたと言われる
が、その時期には階級間の利害対立もはっきりしていて、各政党はつながりの
深い階級の利益を代弁し、追求する役割を持っていたのである。イデオロギー
はその結集軸となり、指導者層と党員、党と支持層の一体感を高める働きを持
った。トッドが言うように、70年代から80年代において、徐々にこうした
関係が失われていく。さらに90年代には、左翼政党の凋落、中道左派政党の
変質などが目立つようにもなったのである。
 各政党の消長と並んで進行していったのは、政党内部の構造であった。トッ
ドは、フランスの社会党の変化を「党は重なり合ういくつもの文化的階層に細
分化されて、ついにはその内部に民衆の代表がいなくなり、全体としての社会
構造から大幅に外れた、選挙で当選した者たちの党に変貌するに至る。」と書
き、ある女性活動家による支部の現状についての率直な語りを引用した後で、
次のようにコメントしている。
   「 かつての活動家は、民衆タイプの者であれ、教師タイプの者であれ、
    教義に対しては受動的な関係にありつつ、自分は党のために働いてい
    る、大義のために働いている、と考えていた。(中略)新たな活動家
    は、たしかに貢献するためにやって来たのだが、しかしとりわけ意見
    を表明するため、個人的に「自己実現する」ためにやって来たのだ。
    (中略)自分は教義の「クリエーター」であると考え、自分の「発言」
    の独創性がことを前進させると想像している。 」(イマニュエル・ト
    ッド『デモクラシー以後』(2008年))
 加わったのは、新たなタイプの活動家ばかりではない。クラウチの言うよう
に、顧問として役に立つ各種の専門家や企業側の人間が中枢部に関わるように
なると、執行部は楕円形の構造となる。旧来の支持者層から見れば、党はます
ます縁遠いものになったと感じられたはずである。
 変貌した政党に結集したエリートたちは、階級の利害を実現するためにでは
なく、政権を獲得したり、維持するためには何が有利かを計算して政策を決め
るために知恵を絞る。そこでは、操作の政治が当たり前のことになっていく。
そのことが大衆の側からの政治不信、エリート不信を招くことにもなり、デモ
クラシー衰退の一因になったのである。
3) グローバル化の影響という要因
 90年代以降のグローバル化の進行は、民主主義衰退・変容の大きな要因と
なった。それがもたらした多面的な影響を考えれば、変容の決定的な要因にな
ったと見ることができる。
 直接的な因果関係としては、グローバル企業の政治的影響力の増大による変
化があげられる。
 これにより、先進国の政府はおしなべて大企業寄りの政策をとっていくこと
になった。クラウチの表現によれば、前デモクラシーの特徴が再現されること
になったのである。
 グローバル化による移民の増大も、次第に深刻な影響を与えていくことにな
った。最初は東欧からの移民の増大である。雇用や福利の安定に惹かれて、E
U内の大国への移動が増えていった。この受け入れ・排除をめぐって世論が分
かれる中、90年代には右派ポピュリストの勢力拡大が見られた。2000年
代以降は、中東からの移民・難民も加わったことにより、この受け入れをめぐ
って各国で分断の政治が見られるようになっていった。
 最も影響が大きかったのは、各国の政府が新自由主義的政策を取り始めたこ
とである。グローバル経済の下で自国大企業の国際競争力を強め、強大化を図
るには、何よりも賃金をはじめとする各種コストの引き下げが必要となる。こ
の視点に立てば、自由貿易の徹底化により第三世界からの安価な生産品を輸入
し、外国人労働力も積極的に活用する新自由主義的政策が有利に見えるのは当
然だった。こうした背景から、本来は労働者や農民に支持を求めるはずの政党
でさえ、新自由主義的経済政策に傾くという展開になっていった。主要な政党
がおしなべて自由貿易支持、規制緩和支持ということになると、多くの経済的
弱者は無力感に陥り、政治に期待しなくなる。一方では、トランプのように自
国中心を唱える右派ポピュリストの過激な言動に惹かれていく人たちも増えて
いくわけである。
 このような現代の民主政治の様相を、シェルドン・S・ウォリンは「新しい
政治体」への変容ととらえて、次のように書いている。
  「 この新しい政治体を『政治経済体制』と名づけることができる。この
   名称の示すのは、政治の限界が、企業体の支配する経済のニーズ、およ
   び企業体の指導力と緊密な協働関係において作動する国家組織のニーズ
   によって決定される一つの秩序体である。(中略) 政治経済体制にと
   って真に民主主義的な政治は、安定性を揺るがすものに見える。その原
   因は、選挙や自由な出版や大衆文化や公教育などの民主主義的な諸制度
   に関して統治者が抱く恐れにある。かれらが恐れるのは、貧しい者やあ
   まり教育を受けていない者、労働者階級や虐げられたエスニック集団を
   動員し利用して、社会的な優先順位の修正と価値の再分配の要求を掲げ
   るための手段にそうした制度がなってしまうことである。こうした動き
   は、インフレによる財政難を激化させ、社会資力を医療施設、廉価な住
   居、有害物質の廃棄などの非生産的な利用に向けるかもしれないという
   のである。したがって、支配的なエリート専門家たちは、合理的な投資
   政策がそうした要求とは異なった優先順位を要請していると主張するこ
   とで、貧しい人々の動員に歯止めをかけることに躍起となる。(『アメ
   リカ憲法の呪縛』1989年)
 この文章が書かれたのが1989年のアメリカにおいてであったことには驚
く。90年代以降、アメリカの政体はまさにそういうものとなり、今日ますま
すそうなってきているからである。
 アメリカ以外の国々についても多かれ少なかれこの指摘は当てはまり、自由
民主主義政体の現状を表現したものになっていると思う。
4) 分断の政治を促進するもの
 2010年代において、いくつかの国では、何らかの政治課題が二極化や分
断を促進し、国民の間に鋭い政治的対立が生じる状況が見られた。例えば、第
二次安倍政権下の日本、EU離脱をめぐって揺れ動いたイギリス、トランプ大
統領が政権に就いたアメリカなどである。さらに、フランス、ドイツ、イタリ
アなどでも、分断の状況が生じた。それぞれ異なる経緯、異なる政治課題で発
生した対立であるが、その経過を見ると、ある共通点があることに気が付く。
 まず、イギリス、アメリカについて言えば、難民の急増やグローバル化の進
行による庶民の不満の増大により、右派ポピュリストが政権をねらいやすくな
る状況が生まれた。日本について言えば、中東や東アジアにおける軍事的リス
クの高まりを理由に、右派の政権が戦後体制を大きく変える法案を提起してき
たことにより、分断が生じてきた。つまり、政治の方向が大きく右に揺れる中
で、分断・二極化の状況が発生したという共通点が見られるのである。
 また、もう1つの面として、対立しあう2つの勢力は対極的な価値観を持っ
ていて、相互に敵視し合う関係になっていったということがある。日本の場合
は、右派勢力が修正主義的な歴史観を持っており、この点でも非和解的な対立
関係になっていた。イギリス・アメリカでは、人種問題や宗教意識、そこから
派生する諸問題において鋭い対立が見られる。右傾化は、このような面からも
分断を強めていくのである。
 2000年代以降、各国の政治状況は右へ左へ大きく揺れ動くものになって
きた。特に右へ振れる時には、民主主義の規範・習慣を大きく損なうような政
治が行われる。そういう時に、分断は深まり、二極の対立は激しいものになっ
ていくのである。
 世界的にも中東問題、格差問題などいくつもの大きな問題を抱えている以上、
2000年代からのこの傾向は消えることがないと思う。であるならば、分断
の政治という特徴は、デモクラシー衰退の末期的症状として今後も続いていく
ものと考える。
5) デモクラシー衰退問題の核心にあるもの
 最後にもう1つ。これは、要因というよりも、衰退の中で生じる有権者の心
理についての見方である。スペインの左翼政党ポデモスの幹部の一人、イニゴ・
エレホンは2016年のシャンタル・ムフとの対談で次のように語っている。
 「 それは、重要なことが何一つ議論されていないからだ。重要な決断は、
  選挙で選ばれたわけではない権力者によって間接的に行われる。しかも、
  そうした権力者は、市民の手のまったく及ばないどこか遠いところにいる。
  国民を代表する政治家が似通っていく一方で、有権者の格差は広がるばか
  り。意見や見通しを闘わせる場がないなかで、民主主義は衰退し、汚職が
  蔓延し、政府への不満が高まっている。代議制の危機は深まり、ごく少数
  の権力者に牛耳られる組織が増えている。」(Chantal Mouffe, Podemos:
   In the name of the People, London『さまよう民主主義』2018年)
 今日のデモクラシー衰退という問題の核心はここにあるように思われる。

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